「居酒屋」で検索しました。
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2025/10訪問
1回
東中野の駅を降りると、夜の空気にほんのりと炭火の香りが混じっていた。住宅街と商店が入り混じるこの街の空気には、どこか人懐っこさが漂っている。角を曲がった先に、木の温もりが滲み出るような小さな看板が灯っていた——「千串屋」。その名の通り、串焼きが主役の店である。 暖簾をくぐると、カウンター越しに立ち上る煙が目に飛び込んでくる。炭の上でじゅうじゅうと音を立てる焼き鳥。焼き手の大将は、手首の返し一つで串をくるりと回し、火加減を絶妙に操っている。その姿に一瞬、時間が止まったような感覚を覚える。串を焼く音、炭がはぜる音、そして奥のテーブルから聞こえる笑い声が、心地よいリズムを刻んでいた。 この日は気の置けない仲間たちと、仕事終わりの小さな宴を開いた。まずは生ビールで乾杯。グラスを合わせる音が軽やかに響き、喉を通る冷たいビールが一日の疲れを洗い流していく。口の中に残る麦の香りと炭の煙が混ざり合い、まるでこの店全体がひとつの料理になっているようだった。 最初に頼んだのは、定番の「ねぎま」。皮はこんがりと香ばしく、中は驚くほどジューシー。塩の加減が絶妙で、鶏の旨味が舌の上にじわりと広がる。続いて「つくね」。ふっくらと焼き上げられたそれは、ひと噛みで肉汁が溢れ、甘辛いタレと黄身のコクが絡み合って至福のひとときを演出する。仲間の一人が「これは日本酒にも合いそうだな」と呟いたが、僕はあえてハイボールを選んだ。炭酸の泡が舌の上ではじけ、脂の余韻を心地よくリセットしてくれる。 次々と運ばれてくる串は、どれも一串ごとに表情が違う。「せせり」のしなやかな弾力、「ぼんじり」の濃厚な脂、「レバー」のとろけるような舌触り——それぞれの部位に、大将の経験と勘が刻まれている。焼き過ぎず、だが芯まで熱が通った絶妙な火入れは、もはや職人芸としか言いようがない。 テーブルの上は、次第に串の山とグラスの数で賑やかになっていった。会話は自然と弾み、くだらない冗談から真面目な将来の話まで、話題は尽きない。炭火の熱気と仲間の笑顔に包まれていると、時間の感覚がゆっくりと溶けていく。店内はそれほど広くないが、むしろその距離感が人と人との心の壁を取り払ってくれるようだった。 気がつけば、店の外には夜風がひんやりと流れていた。通りに出ると、炭火の香りがまだ体に染みついているのが分かる。胸の奥に残るのは、満腹感だけではない。仲間と過ごした、飾らない時間の余韻だ。 千串屋 東中野店——派手さはない。しかし、ここには確かな“旨さ”と“時間”がある。炭火の前に立つ職人と、それを囲む人々の笑顔。そのすべてが、この夜を特別なものにしてくれた。次は一人で、カウンターに腰を下ろしてじっくり味わうのも悪くない。そんな余韻を残して、駅へと続く夜道を歩いた。
2025/10訪問
1回
代々木駅から少し歩いた先に、灯りのようにぽつんと浮かび上がる看板がある。 「肉のウヱキ」。 その名を聞くたび、どこか職人の呼吸が染みついた店なのだろうと勝手に想像してしまう。だが、実際に扉を開けてみると、その予感は裏切られないどころか、むしろ期待を超えてくる。 この日は仕事のパートナーと、少し遅い時間の打ち合わせを兼ねて店を訪れた。 料理の香りと人のざわめき、温かい照明が混ざりあった店内は、妙に落ち着く。 繁盛しているのに落ち着くというのは、不思議な感覚だ。 あれはきっと、空間そのものが“気取らない安心感”に包まれているからだろう。 まず手にしたのは、瓶入りのハイリキ。 昭和の香りを残したボトルは、どこか懐かしさを覚える。 氷がカランと音を立てた瞬間、昔、親父の横で聞いていた同じ音が頭をよぎった。 時代は変わっても、この音だけは変わらないらしい。 グラスを口に運ぶと、炭酸の刺激が舌の上で小さく弾けた。 飲み慣れた味なのに、なぜか今日は新鮮だった。 おそらく、この後に待っている料理たちへの期待が、味を少し華やかに演出していたのだと思う。 テーブルに運ばれてきたのは、山のような手羽先。 表面は黄金色の衣がパリッと音を立て、噛むと肉汁がじわりと広がる。 皿の上で無造作に盛られているようで、実は一つひとつが計算された揚げ具合なのだろう。 油を使いながらも重さを感じさせないのは、職人仕事の証だ。 続いて姿を現したのは、肉屋の誇りを感じさせるメンチカツ。 ひと口かじると、サクッという軽快な音の先に、ぎゅっと詰まった肉の旨さが押し寄せる。 中から溢れ出る肉汁は、まるで逃げ場所を探しているかのように熱く、そして甘い。 こんなメンチに出会えるのは、そう多くない。 そして思わず笑ってしまったのが、もやしの山。 ただの前菜に見えるが、上にかかった香味ダレが秀逸だった。 口の中をリセットしながらも、次の肉を美味しく迎える準備をしてくれる。 料理というのは、こういう“つなぎ”の一皿で店の力量がわかる。 さらに、ほうれん草のサラダには半熟卵がどんと構えている。 香ばしいベーコンの歯ごたえがアクセントになり、サラダとは思えぬ満足感があった。 野菜だけで終わらせない、肉の店らしい一皿だ。 だが、この店で最も印象に残ったのは、接客だった。 とくに、若い女性店員の丁寧な物腰と気配りは特筆すべきものがある。 注文のタイミング、皿を置く手元、目線と笑顔── どれもが自然で、店を良くしたいという気持ちが溢れていた。 忙しい時間帯なのに、まるで客一人ひとりを丁寧に見ているような接客。 “教育が行き届いている”という言葉では片付けられない温かさがあった。 料理が美味しい店は数えきれない。 だが、「また来たい」と思わせる店は限られている。 肉のウヱキ 代々木店は、まさにその希少な一軒だ。 料理の旨さ、心地よい空気、そして質の高い接客。 そのすべてが揃った瞬間、人は店に“居心地”を感じる。 店を出るころには、外の夜風が心地よかった。 一緒にいた仕事仲間も、「ここ、また来たいですね」と言った。 それはきっと、旨い肉だけの話ではない。 この店の“人の温度”こそが、その言葉の正体なのだと思う。
2025/11訪問
1回
御徒町という街は、どこか東京の雑多さと庶民性を同時に抱え込んだ独特の匂いを纏っている。その駅前の喧騒を抜け、ふと立ち寄ったのが「静岡バール丸々 御徒町店」だった。昼時の明るい光に照らされた店内は、木の温もりと程よいざわめきに包まれ、初めて訪れる者でもどこか懐かしさを感じさせる。 その日は仕事の打ち合わせを兼ねたランチであった。だが、食事の場というのは単なる腹を満たすためのものではない。食材の香り、皿に盛られた色彩、そして口の中で広がる旨味が、人と人との会話に柔らかな潤滑油を注いでくれる。そんな空間を求める時、この店はまさに最適だった。 静岡と名のつくバール。想像の中で浮かんでいたのは駿河湾の海の幸や、豊かな大地で育まれた野菜や肉。それらが東京の真ん中に持ち込まれ、イタリアンのニュアンスと混じり合うことで生まれる料理は、想像以上に力強く、そして繊細であった。 ランチの皿に並んだ料理は、ひと口ごとに静岡という土地の輪郭を描き出していく。新鮮なトマトの甘味は、日照豊かな畑を想わせるし、肉料理に添えられた香草は、駿河湾に吹く潮風とどこか共鳴しているように感じられる。打ち合わせをしながらも、思わず手を止め、その旨さに頷いてしまう瞬間が何度もあった。 料理だけでなく、店の空気が心地よい。スタッフの立ち居振る舞いは過度に干渉することなく、しかし確実に客の求めを先回りしている。冷えたグラスに注がれたドリンクが、打ち合わせの合間に心を解きほぐす。人は、食事の場において、料理の味以上にその「間合い」に癒されるのかもしれない。 御徒町という街に漂う雑多な喧騒の中で、この店は静かに、だが確かに「上質な余白」を提供してくれる。会話は時に熱を帯び、時に沈黙を抱え込む。そのどちらも、この店のランチは受け止めてくれる。 食べ終わった頃には、腹も心も満ち足りている。打ち合わせの内容がうまくまとまったのも、料理と空間が自然と流れを導いてくれたからだろう。外に出れば、再び都会のざわめきが押し寄せる。だが、その余韻はしばらく続き、午後の仕事を前向きにさせる力を与えてくれる。 「静岡バール丸々 御徒町店」。ただのランチではなく、時を共有する「場」としての力を持つ店。御徒町の雑踏の中に、こんな静かなオアシスがあることに気づけたのは幸運だった。
2025/09訪問
1回
大阪の夜の街を歩けば、どこからともなく漂ってくる焼き魚の香り、鉄板の上で弾ける油の音、そして通りの奥で笑い声が重なり合う。そんな喧騒のただ中に「酒ト肴 さしすせそ 東通り店」はあった。繁華街のネオンに負けぬよう、控えめながらも確かな存在感を放つ提灯が揺れ、暖簾をくぐった瞬間に、僕の心はすでに解き放たれていた。 「とにかく安くて旨い」——この言葉を体現するような空間だった。まずはハイボールで乾杯だ。グラスに注がれた琥珀色の液体は、氷と炭酸が織り成す音楽を奏で、喉に滑り込んだ瞬間に一日の疲れをすべて吹き飛ばす。乾いた喉に沁みわたる冷たさの中に、ほんのりとしたウイスキーの余韻が残る。仲間と顔を見合わせて笑い合うと、店全体の空気がぐっと自分たちのものになったような気がした。 壁に貼られた短冊のメニューには、気取らぬ言葉が並んでいる。「ポテサラ」「出汁巻き」「唐揚げ」——どれも馴染み深いが、ひと手間かけた風情を漂わせている。出てきた料理はどれも小皿に盛られ、箸を伸ばせばすぐに消えてしまうほどの軽やかさ。それがまた次の一品を呼び込み、酒をさらに進めるのだ。 例えばアジの南蛮漬け。しっかりと酢が効きながらも、角の取れたまろやかさがあり、噛みしめるごとに魚の旨みが浮き上がってくる。あるいは厚揚げの煮物。出汁の香りに包まれたやさしい味は、家庭の食卓にあるようでいて、決して家庭では真似できぬ深みを持っていた。 安さという言葉は、時に味気なさを連想させるが、この店では違った。安いからこそ遠慮なく頼める。そして頼むたびに舌が喜び、心が踊る。仲間との語らいの輪は、酒と肴によって何度も広がっていった。 ふと耳を澄ますと、隣のテーブルでも笑い声が絶えない。会社帰りのサラリーマン、若いカップル、そして地元の常連らしき人々。彼らが一堂に会し、同じ空気を共有していることこそ、この店の魅力なのだろう。高級店では得られない親しみ、肩肘張らずに過ごせる安心感がここにはある。 グラスを重ねるたびに、僕たちの時間は濃密になっていった。時計の針は確かに進んでいるはずなのに、体感ではゆるやかに流れていく。ハイボールの爽快感と肴の旨みが、時の歩みをやわらかくしてくれるのだ。気がつけば、テーブルの上は皿とグラスで埋め尽くされ、笑い声は最初よりもさらに大きくなっていた。 「酒ト肴 さしすせそ 東通り店」。名前の通り、酒と肴があれば人は満たされる。その真理を、この夜僕は改めて実感した。安くて旨い、そのシンプルな力強さが、僕らの心を解きほぐし、また明日を生きる糧となる。ここは豪華さを求める場所ではない。しかし、仲間と笑い合い、肩を並べ、安らぎを求めるには、これ以上ないほどふさわしい場所だ。 扉を出ると、東通りの喧騒が再び押し寄せてきた。しかし、胸の奥にはまだハイボールの余韻と、肴の味わいが静かに残っていた。それは確かに、僕を幸福にした夜の証拠だった。
2025/09訪問
1回
大阪・難波の夜は、いつも何かを始める予感に満ちている。この日は仲間たちとの打ち合わせを兼ねた食事会だった。場所に選んだのは老舗の居酒屋「にしかわ」。派手な看板ではない。だが、暖簾のくぐり口に漂う湯気と匂いが、「ここは当たりだ」と直感させた。 カウンター越しに見える大将の動きは、まるで長年の経験が染みついた職人のそれだった。 テーブルにつくと、まずは刺身の盛り合わせが運ばれてくる。赤身のマグロは筋一つなく、舌に乗せた瞬間に溶けていく。 白身の鯛は淡い甘みと弾力を残し、まるで潮の香りが舌の奥で広がるようだった。 「これは、ええな」同席していた仲間の一人が、静かに唸った。誰もが言葉少なに、箸の動きでそのうまさを分かち合う。 続いて出てきた名物サラダ。 大皿に盛られたレタスとトマト、その上に半熟卵がとろりと乗る。 ドレッシングの酸味が爽やかで、玉子のまろやかさと絶妙に調和していた。 「こういう一皿ができる店は信頼できる」 誰かがそう呟いた。 確かに、こうした“地味なうまさ”こそ、長年通いたくなる理由になる。 そして、たこ焼き。 大阪人にとっての誇りのような料理だ。 外はカリッと香ばしく、中はとろりと柔らかい。 ひと口頬張れば、タコの旨みと出汁の香りが広がり、思わず笑みがこぼれる。 「東京でこの味は出せんやろ」 そう言いながら、誰かがビールを注いでくれた。 グラスの泡が弾ける音と、笑い声が混ざり合い、仕事の話も自然と熱を帯びていく。 締めに選んだのは牛煮込み。 大鍋で長く煮込まれたスジ肉は、箸を入れただけでほろりと崩れる。 味噌の香ばしい香りが鼻を抜け、七味をひとふりすれば味がきゅっと締まる。 「うまいな」 誰もが短くそう言って、黙々と食べた。 言葉はいらない。料理がすべてを語ってくれる夜だった。 気づけば、話題はいつの間にか仕事から人生へと移っていた。 苦い時期を乗り越えた仲間たちと、次の展開を語り合う。 笑いながらも、誰もが胸の奥でそれぞれの覚悟を確かめている。 にしかわの温かな灯りが、その沈黙さえも優しく包んでくれた。 外へ出ると、難波の夜風が心地よかった。 振り返ると、暖簾がゆらりと揺れている。 あの一夜が、また新しい挑戦の始まりになる気がした。 うまい酒、うまい飯、そして信頼できる仲間。 その三つが揃えば、どんな困難も笑い飛ばせる。 「にしかわ」は、そんな気持ちを思い出させてくれる店だった。 味だけでなく、人と人の絆までも温めてくれるような、浪花の底力を感じた夜だった。
2025/11訪問
1回
馬喰町の駅を出て、大通り沿いを歩くと、そこに「あぺたいと 馬喰町店」がある。店先から漂うソースの香りが、夏の湿った空気と混ざり合い、食欲を静かに刺激してくる。 この店に来るのは何度目だろう。数えるのも億劫になるほどだが、不思議なことに、あの両面焼きの焼きそばを前にすると、初めて口にした時の衝撃が、いつも蘇ってくる。 その日も、仕事仲間二人と連れ立って店の暖簾をくぐった。昼時を少し外したせいか、店内は落ち着いていて、奥の四人掛けのテーブル席に通された。厨房は店の奥にあり、見えないながらも、鉄板で麺を押さえる小気味よい音や、油が弾く音が心地よく響いてくる。壁には年季の入ったメニュー表が掛かり、隅の棚には昔ながらのソースの瓶が並んでいた。 迷うことなく「両面焼き焼きそば」を注文した。あぺたいとの焼きそばは、ただの焼きそばではない。麺を鉄板でじっくりと両面焼きにし、外側をパリパリと香ばしく、中はモチモチとした食感に仕上げる。そこに絡むのは、深みのある特製ソース。甘さの中にわずかな酸味とスパイスが効き、麺と一体になった時の調和は、もはや芸術に近い。 焼きそばが運ばれてくる間、我々は唐揚げとハイボールも頼むことにした。運ばれてきた唐揚げは、衣が黄金色に輝き、皿の上で湯気を立てている。箸で割ると、外はカリッと音を立て、中からは熱々の肉汁が溢れ出す。そのひと口を頬張り、すかさずハイボールを流し込む。炭酸の鋭い刺激とウイスキーの香りが、唐揚げの脂を心地よく洗い流し、次のひと口を呼び寄せる。仲間の一人は生ビールを、もう一人は同じくハイボールを手に、それぞれのペースで喉を潤していた。 やがて、待ちわびた両面焼きの焼きそばが目の前に置かれる。表面は美しい狐色の焼き目をまとい、皿に盛られた瞬間、鉄板の香ばしさとソースの甘い香りが、鼻を突き抜ける。箸でひとすくいすると、パリパリとした麺の感触と、その下に隠れた柔らかな麺が同時に現れる。この二層の食感が、あぺたいとの真骨頂だ。 一口目を噛みしめると、外側の香ばしさが小気味よく砕け、その後から中のモチモチが舌に寄り添ってくる。そこに絡むソースが、ただの調味料ではなく、麺のために生まれた運命の相手のように感じられる。具材はシンプルだが、それがかえって麺の存在感を際立たせている。豚肉の旨み、キャベツの甘み、それらがソースと溶け合い、食べ進めるごとに幸福感が積み重なっていく。 仲間の一人が「やっぱりここは裏切らないな」と笑った。もう一人は、唐揚げの最後の一片を大事そうに口に運びながら、グラスのハイボールを静かに傾けていた。そう、この店はいつだって我々を満たしてくれる。どんなに忙しく、疲れ果てた日でも、ここに来れば腹も心も満たされ、また明日へ進む力が湧いてくる。 皿の上が空になり、グラスの氷が静かに溶けていく頃、鉄板の余熱のような幸福感が身体に残っていた。両面焼きの焼きそばも、唐揚げも、そしてハイボールも、何度味わっても「最高だ」と思える。そう感じられる店が、そう多くないことを、我々は知っている。だからこそ、また来るのだ。何度でも、何度でも。
2025/08訪問
1回
浅草橋の街は、不思議な顔を持っている。問屋街のにぎわいが残りつつ、川沿いには古いビルと新しいビルが肩を並べる。夕暮れ時、その雑踏を抜けてたどり着いたのが「四川食堂 KARyu」だった。赤い提灯に灯が入り、川風に揺れる様子はどこか旅先の屋台を思わせる。 グラスに注がれたハイボールを口に含むと、氷の音がカランと鳴り、乾いた喉を一瞬で潤す。浅草橋の雑多な空気と、炭酸の刺激が妙に合う。目の前では厨房の炎が揺れ、鍋を振る音がリズムのように響いている。その光景を眺めながら待つ時間さえ、旅の始まりを思わせた。 最初に届いた餃子は大ぶりで、皮の弾力を噛むと肉汁がじわりと溢れ出す。にんにくと生姜の香りがふわりと鼻を抜け、四川の香辛料が余韻を残す。ハイボールで流し込めば、辛味と炭酸がせめぎ合い、浅草橋の夜をさらに鮮烈にしていく。 次にやってきたのはメンマ。歯応えはしっかりしていて、噛むたびに濃いタレの旨味が広がる。脇役に徹するどころか、酒の肴として堂々たる存在感だ。問屋街の古い木箱や、路地に積まれた段ボールの風景が頭に浮かぶ。素朴で力強い味わいは、この町の空気と呼応しているように思えた。 そしてメインの肉料理。唐辛子が散らされた皿からは熱気が立ち上り、視線を送っただけで舌が痺れる気がする。口に運べば、肉の甘みと脂の濃厚さが唐辛子の辛味と重なり合い、爆発するような衝撃が押し寄せてくる。汗が額をつたう。だが、この火照りこそが四川料理の真骨頂だ。辛さに翻弄されながらも、身体は再び箸を伸ばす。 食べ終えた後も舌には心地よい痺れが残り、川沿いの夜風と相まって旅の余韻が続いていく。浅草橋の交差点に立ち、ふと空を見上げれば、街の灯りが滲み、心の中に小さな旅が刻まれていた。 「本場は最高」――そう思わせる力が、この四川食堂 KARyu にはあった。浅草橋という町に溶け込みつつ、異国へと連れ出す一皿。その魅力を、私は忘れることができない。
2025/09訪問
1回
夜の帳が下りる頃、路地の奥から炭火の匂いが漂ってきた。煙が細い筋を描きながら宙へと昇り、それに導かれるように僕たちは「炭火焼き定食・居酒屋 炭田屋」へと足を踏み入れた。暖簾をくぐると、すでに店内は活気に満ちている。炭火のはぜる音、焼き網に落ちる脂の香ばしい匂い、そして客たちの笑い声が渾然一体となり、この夜を約束されたものにしていた。 席につくや否や、仲間は迷わずハイボールを頼んだ。グラスに注がれた琥珀色の液体は、氷の音を響かせながら僕らの前に並ぶ。ひと口含めば、シュワリとした爽快感が喉を抜け、長い一日の疲れを溶かしていった。酒を流し込みながら、炭火でじっくり焼かれる魚を眺める時間ほど贅沢なものはない。 この夜の主役は、何といっても焼き魚だった。サバ、ホッケ、アジ、サンマ……脂の乗り切った魚たちが次々と炭火にのせられていく。パチパチと音を立てながら皮は黄金色に輝き、ほのかに焦げる香りが食欲を刺激する。皿に盛られた魚を箸で割ると、白い湯気とともに肉厚な身がほろりとほどけた。口に運べば、炭火ならではの香りと旨味が広がり、ハイボールが思わずすすむ。 値段は決して安くはない。だが、一口ごとに「高い理由」が分かる。魚はどれも新鮮で、仕入れにこだわりがあるのだろう。焼き加減も絶妙で、皮のパリパリ感と身のふっくら感が見事に共存している。特に銀ダラの西京焼きは、甘みと塩気のバランスが秀逸で、舌の上でとろけるようだった。その瞬間、僕は「ここに来てよかった」と心から思った。 仲間との会話は尽きない。焼酎を追加する者、再びハイボールを頼む者、それぞれが自分のペースで楽しみながら、魚と酒に酔いしれていく。テーブルの上には次々と焼き魚の皿が積み重なり、まるで小さな漁港で宴を開いているかのようだった。誰かが言った。「高いけど、これだけの魚が揃う店はそうそうない」。その言葉に全員がうなずいた。 炭田屋の魅力は、料理だけではない。炭火の炎が揺れる調理場を前に、職人が真剣な表情で魚を返す。その姿に、ただの居酒屋ではない矜持を感じた。焼き魚を通じて、海と人をつなぐ使命を背負っているように見えるのだ。食べる者に誠実でありたいという心意気が、皿の上から伝わってくる。 夜も更け、最後の一皿まで平らげた。勘定を済ませると、確かに財布の中は少し軽くなった。だが、不思議と悔しさはなかった。むしろ胸の奥には、得難い満足感が広がっていた。旨い魚と旨い酒、そして仲間と過ごす時間。それが揃う場所は、値段以上の価値を持っている。 両国から少し足を延ばしてでも訪れるべき一軒。炭火の炎が織りなす料理と、仲間との笑い声が溶け合う夜を体験できるのは、「炭火焼き定食・居酒屋 炭田屋」だけだ。 評価は4.1。高いが、それを補って余りある満足感がここにはある。
2025/09訪問
1回
金沢の街は、夜になるとしっとりとした艶をまとい、石畳に灯る光がどこか旅情を誘う。その夜、僕はひとりの女性を伴って「金沢旬菜 なごみや」の暖簾をくぐった。デートに店を選ぶのは、いつだって緊張を伴う。場所の雰囲気、料理の質、そして店の人柄――それらがうまく噛み合ってこそ、夜は記憶に刻まれる。 小さな引き戸を開けると、木の温もりに包まれた空間が広がっていた。派手さはない。だが、心を静かに落ち着けるような佇まいがある。カウンターの奥で迎えてくれた店長の笑顔が印象的だった。どこか安心感を与える雰囲気をまとっていて、こちらの緊張を解きほぐしてくれる。彼の声には、人を思いやる柔らかさが滲んでいた。こういう人柄に出会うと、料理への期待も自然と高まる。 席に着くと、まず頼んだのは刺身の盛り合わせだった。金沢は海に近い街である。その地の利を最大限に生かした刺身は、言うまでもなく新鮮そのもの。氷の上に美しく並べられた旬の魚たちは、宝石のように光を放っていた。口に運ぶと、身がほどけるように滑らかで、海の香りが広がる。特に鯛の切り身は、噛むほどに甘みが増し、舌の上で静かに存在感を示した。イカの透き通るような白さ、マグロの赤の鮮烈さ――色彩の対比が、視覚からも楽しませてくれる。彼女が「おいしい」と微笑む、その一言が、この店を選んだ自分を肯定してくれるようで、胸の奥に安堵が広がった。 料理を通じて二人の会話は自然と弾んだ。酒をすすめられ、地元の冷酒を口にしたとき、ひやりと冷えたその一口が、魚の旨味をさらに引き立てた。食材と酒が互いを高め合う瞬間こそ、旅先で味わう醍醐味だ。彼女がグラスを傾ける姿を見ながら、僕は「ここで過ごす時間が、長く記憶に残るものになるだろう」と確信していた。 なごみやの良さは、料理だけにとどまらない。例えば店内に流れる空気だ。賑やかすぎず、かといって静まり返ってもいない。適度なざわめきが二人の会話を守り、安心して心を開ける雰囲気をつくっている。店長が時折見せる気配りも心地よい距離感で、こちらの邪魔をすることなく、さりげなく飲み物の追加を促してくれる。その立ち居振る舞いに、この店の本当の価値を見たような気がした。 デートというのは、料理や場所だけでは成り立たない。そこに流れる空気、人の温かさが重なって、ようやく完成する。なごみやは、その三拍子が揃っていた。店を出る頃には、金沢の夜風が心地よく、街灯の下で交わした会話が、どこか甘美に響いた。彼女の横顔に灯る微笑みを見ながら、僕は心の中で「また必ず来たい」と思っていた。 なごみやは、ただ食事をする場所ではなく、大切な人と時を刻む舞台だ。新鮮な刺身の旨さに舌鼓を打ち、店長の人柄に癒やされる。そんな体験は、旅の記憶に確かな彩りを添えてくれる。この街を訪れる誰かに、心から勧めたい店のひとつである。
2025/08訪問
1回
池袋の街を歩くと、昼下がりの人の流れは絶えない。駅前の喧騒を背にしてサンシャイン通りを抜け、階段を降りると、そこに「青龍門」がある。石造りの壁と柔らかな灯りが出迎えてくれるその入り口は、東京の真ん中にありながら、異国の横丁に迷い込んだような錯覚を抱かせる。表に広がる雑踏とは別世界。店内に足を踏み入れた瞬間、湿度を含んだ空気と、香辛料の香りが鼻をかすめる。昼時ということもあってテーブルはほぼ埋まり、サラリーマン、買い物帰りの親子連れ、学生らしき若者たちが賑やかにランチを楽しんでいた。 この日は仲間二人と落ち合い、少し遅めのランチを取ることにした。選んだのは、担々麺のホリデーランチセット。メニューの写真に映る真っ赤なスープの色が、腹の奥を刺激したからだ。注文を告げてしばらく待つと、重みを感じる丼がテーブルに置かれた。表面に浮かぶ辣油が艶やかに光り、立ち上る湯気の中に胡麻の香ばしさが漂う。レンゲを手に取り、ひと口すすれば、舌の上に濃厚な胡麻のコクが広がり、その後を追いかけるようにじんわりとした辛みが押し寄せてくる。決して暴力的ではなく、旨味と辛味が拮抗した心地よい刺激だ。 麺はやや太めで、スープをたっぷりと絡め取る。噛むたびに胡麻の香りとスパイスの辛みが交錯し、口の中で小さな火花を散らすようだ。時折浮かぶ挽肉をすくい上げれば、じゅわりとした旨味が広がり、スープ全体に厚みを加えてくれる。夢中で箸を進めていると、気づけば汗が額を伝い落ちていた。夏の暑さとは別の、食欲に突き動かされる汗だ。 セットには小鉢と点心、そしてライスが付いてくる。餃子の皮は薄く、口に運ぶと肉汁がじんわりと広がる。揚げ物ではなく蒸し餃子というのがまた良い。しっとりとした皮と、ふっくらとした餡の組み合わせは、担々麺の刺激を一時和らげ、次のひと口を欲望へと変えてくれる。小鉢の野菜料理はさっぱりとした味付けで、辛さに火照った舌をリセットする役割を果たしていた。 テーブルの向かいに座る仲間は、同じセットを頼み、無言で汗をぬぐいながら麺をすすっている。もう一人は「辛いな」と笑いながらも箸を止めようとしない。その様子を見ていると、料理がただの食事以上の意味を持つことを思い出す。仲間と共に同じものを食べ、同じ時間を過ごすことで、互いの距離が一段と縮まる。そんな当たり前のことが、この一杯の担々麺によって鮮明に浮かび上がってきた。 隣のテーブルからは賑やかな笑い声が響き、奥の席では家族連れが点心をシェアしている。中華独特の香りと、人々のざわめきが入り混じり、店内は活気に満ちていた。だが不思議と騒がしいとは感じない。むしろ雑多な音や匂いが心を落ち着かせ、池袋という都市の中で小さなオアシスを見つけたような気分になる。 食べ終えたあと、丼の底に残ったスープをレンゲですくいながら、もう一口、もう一口と飲んでしまう。最後には胃袋が心地よく満たされ、午後への活力が全身にみなぎっていくのを感じた。ランチセットとはいえ、その満足感は決して軽くはない。むしろ、この一杯で得られる充実感は、どんな高級店の料理にも引けを取らないとすら思えた。 青龍門 池袋店――ここは、池袋という街の喧騒を忘れさせる空間であり、濃厚な担々麺の一杯が、仲間との時間をより深いものへと変えてくれる場所だった。食後の余韻とともに店を出ると、再び雑踏の音が耳に流れ込んできた。だがその時の自分は、腹も心も満たされ、少しばかり強くなったように感じていた。
2025/08訪問
1回
本八幡の夜は、いつもどこか湿っている。総武線の高架下を抜け、都営新宿線の出口から顔を出すと、目の前にそのオレンジ色の看板が見えた。吉野家。 いつものことだ。何度この店に吸い寄せられてきたことか。 だが、今日は違った。いつもの牛丼ではない。新メニュー、「まぜそば」。それが、どうしても気になっていた。 カウンターに腰を下ろし、注文票に視線を落とす。まぜそばという言葉が、妙に艶かしい。つるりとして、それでいてどこか野性的な響きがある。 厨房の奥から、ジュウと油の弾ける音が聞こえてくる。その音に誘われるように、私は無意識に背筋を伸ばす。体が食べる準備をはじめている。 やがて目の前に運ばれてきたそれは、見た目にも食欲をそそる姿だった。 黄金色に照り返すタレ、もやしと刻みネギがこんもりと乗り、その上からは卵黄がとろりと光っている。まるで、深夜の路地裏に灯るひとつのネオンのようだった。 箸を手に取り、一気にかき混ぜる。卵とタレ、具材、そしてもっちりとした麺が渾然一体となって絡んでいく。その瞬間、湯気の中に立ちのぼる匂いに、私は完全に心を奪われた。 それはもう、言葉では表現しきれない種類の欲望だった。 一口。いや、正確には最初の啜り。 濃厚なタレの甘みと、背脂のコクが舌に広がる。追いかけるように、刻みニンニクと胡椒のパンチが喉元を駆け抜けていく。 次の瞬間、私は思わず笑ってしまった。ああ、うまい。どうしようもなく、うまい。 まるで、長年追いかけてきた何かが、いま目の前で形を変えて答えをくれたような、そんな錯覚すら覚えた。 ほっぺが落ちる、という表現があるが、今日ほどその言葉の意味を身体で理解した日はない。 実際、口元の筋肉がゆるみ、何度も笑いが込み上げてくる。 そして、その笑いの向こうには、日々の相場に疲れた自分が、まるで肩の荷を降ろしたかのように座っていた。 隣の席では、若いサラリーマン風の男が黙々と牛丼をかき込んでいる。 彼がひとくち、味噌汁をすすったタイミングで、私はつい声をかけそうになる。 「これ、食べたことあります? まぜそば、ヤバいですよ。」 だが、言葉は胸の中に収めた。 こういう幸福は、誰かに語るより、静かにひとりで味わう方がいい。 ましてや、この店のカウンター席ではなおさらだ。 食べ終えたあと、私はカウンターに100円玉を二枚、余計に置いてしまった。 理由はわからない。ただ、あの一杯に、たしかにそれだけの価値があった気がしたのだ。 店を出ると、また総武線の夜の風が、肌をかすめていく。 スマホを取り出し、株価アプリをちらりと開く。日経平均は…まぁ、いい。今日はもう、まぜそばで十分、勝っている。 本八幡の吉野家。 ここで、私はまたひとつ、大人の夜を覚えた。
2025/07訪問
1回
先日、神田駅近くの「さかながはねて 神田本店」に晩御飯を食べに行きました。以前から魚が美味しいと評判のお店で、楽しみにしていたのですが、実際に訪れてみて、その期待を裏切らない素晴らしい刺身に出会うことができました。 この日の目当てはやはり「刺身」。盛り合わせを注文すると、テーブルに運ばれてきた瞬間、その見た目の美しさに思わず声が出てしまいました。鮪、鯛、ブリ、甘えび、帆立など、どれも新鮮で艶やかに光り、まるで一皿の中に海の幸の世界が広がっているようでした。 一口目から、鮮度の良さがはっきりとわかります。鮪の赤身はしっとりとしていて、噛むほどに旨みが広がり、ブリは脂がのっていてとろけるような口当たり。鯛は歯ごたえがあり、さっぱりとした後味が日本酒とよく合いました。特に印象に残ったのは帆立の甘さ。素材そのものの味がしっかりしていて、まさに“本物の刺身”を食べているという満足感がありました。 合わせて注文した日本酒もまた絶妙で、スタッフの方が勧めてくれた辛口の純米酒は、魚の旨みを引き立ててくれる名脇役。料理と酒の相乗効果で、自然と会話も弾み、心地よい時間が流れていきました。 ただ一つ、気になった点があるとすれば、店内の賑やかさ。ちょうど隣のテーブルにサラリーマンの団体客がいて、かなり盛り上がっていたため、やや騒がしく感じました。静かにゆっくり食事を楽しみたい方には、タイミングによっては少し気になるかもしれません。とはいえ、そうした喧騒もまた“仕事終わりの居酒屋らしさ”であり、活気のあるお店という意味ではプラスにも捉えられます。 店内は和風で落ち着いた雰囲気の内装が印象的で、カウンター席やテーブル席、半個室も用意されており、使い勝手は良さそうです。スタッフの対応も丁寧で、注文や配膳もスムーズでした。 全体として、「さかながはねて 神田本店」は、魚好きにはたまらないお店。特に刺身の質の高さは特筆もので、この価格帯でこれほど新鮮なネタを提供してくれるのは本当にありがたいです。今度はもう少し静かな時間帯に訪れて、煮付けや焼き物などもじっくり味わってみたいと思いました。
2025/05訪問
1回
上野の街は、夕暮れを過ぎると一気に熱を帯びる。 通りの灯りが、どこか異国の港町を思わせるように滲んでいた。 仲町通りは人波が行き交い、屋台の煙と、どこか懐かしい油の匂いが混ざり合っている。 その喧噪のなかを抜けて、私たち五人は「再来宴」の暖簾をくぐった。 重たいガラス戸を引くと、すぐに広がるのは中華特有の濃密な空気。 油をまとった鉄鍋の匂い。紹興酒の甘い香り。 どこか“遠くへ来た”ような錯覚を起こす瞬間だった。 店内は広くはないが、雑多な空気が逆に落ち着く。 長いテーブルには既に料理が数品並んでいる。 私たちは仲間であり、同時に各分野の戦友でもあった。 席に着くと誰ともなく話が始まり、仕事の話題が飛び交う。 音の粒が混ざりあい、にぎやかな夜を形づくっていく。 箸を伸ばすと、最初に口に入れたのは青菜と干し豆腐の和え物だった。 素朴な見た目に反して、噛むほどに旨味が滲む。 あっさりとした塩気の奥に、油がほんのり香り、 口の中で、静かに輪郭を広げていく。 忙しない一日の境界線が、そこからゆるやかに溶けていくようだった。 その横には、大きな氷を沈めた琥珀色の紹興酒。 グラスを傾けると、甘さの奥に深い土の香りがある。 長い年月を瓶の中で眠っていた酒が、 ようやく呼吸を取り戻したかのように鼻腔をくすぐる。 飲むたびに、気持ちがどこか遠くへ運ばれていく。 次に運ばれてきたのは、濃厚なタレをたっぷり纏った手羽先だ。 照りのある飴色が皿の白によく映える。 噛んだ瞬間、甘辛いタレが舌にまとわりつき、 その奥からじゅわりと肉汁が広がった。 忙しい日々の中で、こういう“分かりやすく旨い”料理は 理屈抜きで心をほぐしてくれる。 テーブルの上には、会話と料理が絶えず循環していた。 ビジネスの相談、未来の構想、予期せぬアイデア。 五人の話が互いに混ざり合い、まるで鉄鍋の中で炒められる具材のように、 次第に形を成していく。 時折、誰かの笑い声が店内の喧噪に溶け、そのまま天井の方へ消えていった。 一杯、また一杯と紹興酒を重ねる。 氷がゆっくりと溶け、酒の味が変化していくのがわかる。 まるで、今いる時間そのものが、 少しずつ柔らかくほどけていくようだった。 ふと周りを見渡すと、テーブルごとにさまざまな物語が生まれている。 酔った声、熱心に語り合うスタッフ、 そして食事を楽しむ家族や仲間たち。 “人が集まる理由”が、料理だけではないことを教えてくれる。 気がつけば、時計の針はだいぶ進んでいた。 外に出ると、上野の夜はまだ賑やかだった。 仲町通りの灯りが揺らめき、酔いをやわらかく包んでくれる。 五人での会食は、ただの食事ではなく、 未来へ向かうための、小さなエネルギー補給のように思えた。 再来宴のあの濃密な空気は、 店を出てなお、しばらく身体のどこかに残り続ける。
2025/11訪問
1回
浅草――。観光客でごった返す雷門から少し歩いた先、昼間から酒の匂いが漂うホッピー通りに足を踏み入れると、まるで昭和の時間がそのまま閉じ込められたかのような、不思議な空気が漂っている。軒を連ねる居酒屋の軒先では、提灯が風に揺れ、ジョッキを手にした人々の笑い声が通り全体を包み込む。ここに来るたび、東京という都市の奥深さと、人間の欲望が素直に顔を出す場所が、確かにここにあると感じるのだ。 そんな中で、ふと足を止めたのが「浅草酒場 岡本 ホッピー通り店」だった。昼下がりの陽射しが斜めに差し込む店先では、煙がもくもくと立ち上り、炭火の香ばしい匂いが鼻腔を刺激する。テーブルにはすでに何組もの客が陣取り、焼き鳥とホッピーで昼からいい具合に出来上がっている。観光客もいれば、地元の常連もいる。スーツ姿でネクタイを緩めた中年男性が一人、ジョッキを傾ける姿も見えた。昼間から酒を飲むという背徳感と開放感が、この街では自然なこととして受け入れられている。 仕事のパートナーと合流し、二人で席に腰を下ろす。注文したのは、まずはハイボール。キンと冷えたジョッキが手に伝わる感触が心地よい。一口目を喉に流し込むと、炭酸の刺激が体の隅々まで駆け抜けていく。昼間の空気とハイボールが混ざり合い、なんとも言えない解放感が胸に広がった。背後では観光客の英語が飛び交い、店員の威勢のいい声が響く。ここは国籍も肩書きも関係ない、一種の“無国籍酒場”なのだ。 焼き鳥がやってきた。香ばしい皮目がパリッと焼けたもも肉、脂がじゅわりと滴るねぎま、そしてタレの甘辛さが鼻をくすぐるレバー。炭火の熱で余分な脂が落ち、旨味だけが凝縮された一本一本は、まるでこの街の人々の人生そのもののように、無骨で、まっすぐで、力強い。タレを絡めた串を口に運び、ハイボールで流し込む。その瞬間、昼と夜の境界がふっと消える。時計を見ることを忘れ、ただ目の前の料理と会話に身を委ねる時間。それこそが、ホッピー通りの本当の魔力だ。 パートナーと話す内容も、いつもより柔らかい。ビジネスの話をしているはずなのに、まるで旧友と旅先で語り合っているような、そんな不思議な心地になる。酒と焼き鳥、そしてこの通りの空気が、仕事と日常の境界を曖昧にし、人と人の距離を一気に縮めていく。 ふと見上げると、青空の下で提灯が揺れていた。観光地としての浅草ではなく、「生きている街」としての浅草が、確かにここに息づいている。グラスの氷がカランと鳴る音に耳を傾けながら、もう一杯、ハイボールを頼んだ。昼間の一杯は、夜のそれとは違う。言葉にできない幸福感と、少しの背徳感が混じり合い、心に小さな火を灯す。 「浅草酒場 岡本」は、観光のついでにふらっと寄るだけではもったいない。むしろ、目的地としてこの店を選び、この通りで昼酒を楽しむことこそ、浅草の真髄を味わう方法だろう。焼き鳥とハイボール、そして通りの空気。それがあれば、午後の時間がどれだけ長くても、心は不思議と軽くなる。
2025/10訪問
1回
御堂筋沿いをなんばの雑踏の中ふらりと歩いていた。人波をすり抜けるようにして辿り着いたのは「御堂筋なんば応援団 大分からあげと鉄板焼 勝男」。看板に灯る赤い光が、旅人を誘うようにじっとこちらを見ている。特別な目的があったわけじゃない。ただ、無性にハイボールと鶏のももを食べたくなったのだ。そんな衝動に任せて足を止め、引き戸を開けた瞬間、香ばしい油の匂いが鼻を突き抜けた。 店内は威勢のいい声が飛び交い、鉄板の上では肉が弾ける音がリズムを刻んでいる。カウンター席に腰を下ろし、まずは迷わずハイボールを頼んだ。冷えたジョッキが手に伝わるその感触だけで、今日一日の疲れが溶けていくように思えた。ひと口飲むと、強めの炭酸が喉を突き抜け、身体がすっと軽くなる。都会の雑踏の中で味わう一人の時間、その静けさをこの一杯が保証してくれる。 すぐに運ばれてきたのは、こんがりと焼かれた鶏のもも。皮はパリッと音を立てるほど香ばしく、中は肉汁がじわりと溢れ出す。噛むほどに鶏の旨味が舌に絡みつき、ハイボールをまた呼び寄せる。大分からあげの店と銘打つだけあって、鶏へのこだわりは強いのだろう。その一口ごとに、遠く九州の温暖な空気や、地元の人々が誇る鶏料理の風景が脳裏に浮かんでくる。 次に注文したのはせせり。鶏の首肉という希少部位だ。鉄板で焼かれたせせりは、弾力のある食感が特徴的で、ひと噛みすると程よい脂が口の中に広がる。プリプリとした歯ごたえと濃厚な旨味は、鶏肉の中でも格別だ。もものジューシーさとはまた違う、噛みしめるほどに奥行きのある味わい。ハイボールとの相性も言わずもがなだ。喉を潤すたびに、肉の余韻と炭酸の刺激が絡み合い、何とも言えぬ幸福感をもたらす。 店は賑わっているが、カウンターに腰かけると不思議と孤独が心地よい。隣の客は仲間と笑いながら唐揚げをつつき、奥のテーブルでは会社帰りらしい一団が声を張り上げている。その喧噪をBGMに、僕はひとり、自分の世界に没頭する。グラスの中で氷がカランと鳴る音が、まるで旅の途中の宿で聞く風鈴のように心を和ませた。 大分の唐揚げを看板に掲げるこの店には、ただ安く飲み食いできる居酒屋以上の力がある。鉄板の上で踊る肉の匂いが人を引き寄せ、ひと口の鶏肉が人を黙らせる。そして、強炭酸のハイボールが人を解き放つ。心斎橋となんばの間を行き交う人々にとって、この店は憩いの場であり、明日への活力を取り戻す場所なのだろう。 ふらりと立ち寄っただけの夜だったが、ここでの一杯と一皿は、僕の中に小さな物語を刻みつけた。ハイボールの爽快さ、ももの肉汁、せせりの歯ごたえ。すべてが都会の夜にひとすじの光を投げかけてくれたように思う。次にまたここを訪れるときも、僕はきっと同じようにグラスを傾け、鶏肉を頬張りながら、自分だけの旅の続きを歩んでいるだろう。
2025/09訪問
1回
新宿・歌舞伎町――眠らない街の喧騒を背に、僕らは仕事を終えた仲間たちと共に「すし酒場 すさび湯」の扉を押した。五階建てのビル全てがこの店だと聞いて、まずそのスケールに驚かされた。階ごとに席が用意され、まるで寿司と酒を求める人々の城郭のように、この街のど真ん中にそびえている。 エレベーターを降りると、賑やかな声と共に漂ってくるのは新鮮な魚の匂いと、炊き立ての酢飯の香り。暖簾をくぐった瞬間、そこはもう「寿司の楽園」だった。僕らのテーブルにはすぐに冷えた生ビールが並べられ、グラスを掲げると一日の疲れが泡と共に弾け飛ぶ。黄金色の液体が喉を滑り落ちると、次に待ち構えているのは寿司の饗宴だ。 まず運ばれてきたのは鮮やかなマグロの赤身。口に含むと、程よい酸味の酢飯と共に、鉄のような旨みが舌に広がっていく。その後を追うように中トロが登場する。脂がじんわりと溶け出し、赤身の力強さと脂の甘さが渾然一体となり、思わず目を閉じてしまった。仲間の誰かが「これはもう反則だな」と呟き、皆が笑った。仕事で張り詰めていた空気は、この瞬間に完全に溶けていった。 次に手を伸ばしたのは光り物だ。アジ、イワシ、サバ――どれも銀色の輝きを放ち、酢で締められた身がさっぱりと口中を洗う。脂ののったネタを食べ進めてきた後に、この清涼感が訪れることで、再び食欲が刺激される。ビールをもう一口流し込むと、舌が新しい寿司を迎える準備を整えてくれる。 握りの合間に味わったのは巻物。鉄火巻き、かっぱ巻き、そして太巻きの豪快さ。大ぶりに切られた具材がぎっしりと詰まり、酢飯とのバランスが見事だ。酒場と名乗るだけあって、寿司だけではない。「肴」としての寿司を、酒と共に楽しむ仕掛けがここにはあるのだ。 仲間たちの笑い声が響く。普段は真剣な顔で資料を広げ、数字を追いかける彼らが、今夜は少年のような顔をしている。寿司の旨さが、人をこんなにも素直にさせるのか。僕はふと、寿司という料理の魔力を思った。魚を捌き、酢飯と合わせただけのシンプルさなのに、そこに宿るのは「祝祭」であり「癒やし」であり、そして人をつなぐ力だ。 五階建ての空間は、それぞれの階で宴が繰り広げられているのだろう。ここは単なる寿司屋ではない。歌舞伎町の夜を支える巨大な社交場であり、無数の乾杯と笑顔を飲み込んでいる場所だ。窓の外に見えるネオンがちらちらと揺れ、まるでこの街そのものが僕らの宴を祝福しているようだった。 最後に口にしたウニは、濃厚な海の香りを残しながら喉の奥へと消えていった。打ち上げの締めくくりとして、これ以上の贅沢はない。グラスの底に残った最後のビールを飲み干し、仲間たちと笑い合う。ここで過ごした時間が、僕らの仕事にまた新しい力を与えてくれるだろう。 「すし酒場 すさび湯 歌舞伎町店」。それはただの寿司屋ではなかった。五階建ての器に、寿司と酒と人の喜びを詰め込んだ、街の巨大な祝祭装置だったのだ。
1回
銀座の夜を歩けば、ネオンという名の魔物が男の背中をそっと押してくる。ふらりと誘われるままに入ったのが〈フーターズ銀座〉だった。スタイリッシュなガラス張りの入口を抜けると、オレンジ色の光がどこかアメリカ映画のワンシーンのような熱気を帯び、そこに立つ彼女たちは皆、元気と笑顔を制服代わりにしていた。 細身のTシャツと、白いパンツ――いや、あれは“衣装”と呼ぶべきか。どこか挑発的でありながら、健康的で、陽気。日本の居酒屋にはない、あの“割り切った空気”が、かえって潔い。思わず目が泳ぐのも無理はない。 カウンターに腰を掛け、ハイボールを二つ頼む。氷のカランという音、それだけで気分がほどけてくる。酸味のきいたレモンが沈んだグラスを片手に、隣の相棒と意味のない与太話を転がしながら、視線はどうしても店内を往復してしまう。 ふと近寄ってきた一人のスタッフが「おかわりは?」と屈託のない笑顔で問いかける。少年のような純粋さと、大人の女の色香、その狭間に揺れるパンツ姿のセクシーさ――銀座の夜は、こうして男を無防備にさせていく。 気づけばハイボールは三杯目。酔いというより、あの空気に呑まれた。料理の記憶は正直ほとんどない。ただ、二人で笑っていた。パンツは確かにセクシーだった。そして、そういう“どうでもいいこと”が、ときに人生を輝かせる。 ――銀座の夜風を浴びながら、フーターズの扉を後にする。ハイボールとパンツ、それだけを土産にして。
2025/08訪問
1回
上野という街は、いつ訪れても雑踏の熱と人いきれが混ざった独特の気配を纏っている。アメ横を抜けた先の路地で、ふと鼻先をくすぐる甘い醤の匂いに立ち止まった。北京ダック専門店──その看板のひと言だけで、旅の途中に寄り道をしたくなる衝動が生まれる。仲間内との打ち合わせを兼ねた昼食は、どうせなら腹の底からうまいと唸れる料理がいい。そう思いながら扉を押した。 店内に足を踏み入れると、金色のクロスが敷かれた円卓が整然と並び、どこか異国の宴会場のようにも見える。北京語が飛び交う厨房からは、皮が焼けるかすかな香ばしい匂い。料理を待つあいだ、自然と背筋が伸びた。 最初に運ばれてきたのは、北京ダックの第一幕。薄く削いだ飴色の皮と、肉の断面が美しく並ぶ。白い皿の上で、きらりと脂が光る。その隣には、透けて見えるほど薄いクレープのような皮と、針のように切りそろえられた白ネギとキュウリ。料理とは、ここまで律儀に“準備”の段階から魅せるものなのかと、改めて感心させられる。 手に取ると皮は驚くほど柔らかく、しかし弾力を持っている。キュウリの青さと白ネギの鋭い香りが混ざり合い、そこに甘く濃厚な甜麺醤をひとすくい落とす。包んで口に運ぶと、脂がすっと溶けていき、皮と野菜の歯ざわりが追いかけてくる。強烈ではない、しかし確かな存在感。北京ダックがなぜ世界中で愛されるのか、その理由がひと口ごとに胸の奥で腑に落ちていく。 料理とはいつも、人生のどこかで見落とした景色を思い出させてくれる。北京ダックを噛みしめながら、僕らはビジネスの話に自然と熱を帯びていった。上野の街の雑踏とは対照的に、卓上の時間だけは妙にゆるやかに流れている。 次に現れたのは、鮮やかな朱色をまとったエビチリだった。大ぶりの海老がゴロゴロと並び、レタスの緑とソースの赤が対照的に映える。スプーンですくえば、ぷっくりとした海老の重みが手に伝わる。ひと口噛むと、弾けるような食感と甘辛いソースの広がり。辛さを控えめにしているせいか、海老そのものの旨みがすっと立ち上がる。北京ダックの余韻の上に、この海老チリがちょうどいいアクセントを落としてくれる。 仲間と目を合わせる。 「これは話が進むな」 冗談めかしたひと言に、皆が笑った。 料理には、人を前へ押し出す力があるのだと思う。北京ダックの香りに背中を押され、エビチリの温かさに言葉がほどけていく。上野という街のざらついた空気ごと、この円卓が包み込んでくれるようだった。 外へ出ると、午後の陽が街を照らし、人々の足音がまた騒がしく耳に入ってきた。だが、店内で過ごしたひとときは、どこか旅の途中で寄った北京の食堂の記憶のように心に残っている。 北京ダックを包んだあの動作の丁寧さ。皮が舌に触れた瞬間の静かな衝撃。海老チリの温度。 それらはすべて、ささやかな旅の“景色”になった。 打ち合わせの成果も悪くない。 いい料理を前にすると、人は自然と前向きになる。 上野の街を歩きながら、僕はそんなことを考えていた。
2025/11訪問
1回
夜の赤いテーブルに落ちる、肉の色気と、ふたりの時間の濃さについて— 赤いテーブルの上に、金属の皿がひとつ置かれた。その上に広がるのは、ただの肉ではない。艶やかな脂が光をまとい、まるでこの街の夜を切り取って乗せたようだった。 西葛西の焼肉店で、僕はひとりの女性と向かい合っていた。目の前の肉が色気を放っているのか、彼女の表情がそうさせるのか、その境界はいつの間にか曖昧になっていた。 生醤油ににんにく、そして脂の香りが混ざり合ったタレが、肉の筋目に沿って滑り落ちていく。その一瞬を眺めるだけで、妙に胸がざわつく。旅先で列車の窓から見える景色が、次の目的地を予感させるような興奮だ。 焼台の上にそっと肉を置くと、じゅっと短い声が上がった。 その音は、今日という日の幕開けを告げるファンファーレにも聞こえた。 表面が少し縮み、脂が細かな泡をつくりはじめる。焼きあがる前に裏返せば、赤身の奥から湧きたつ肉汁がこちらの期待に応えるように溢れてくる。箸でつまむと柔らかく、噛めば旨味が洪水のように押し寄せる。人は良い肉を食べた瞬間、ほんの少しだけ無口になる。言葉より官能のほうが先に立つからだ。 サラダは韓国風の辛味がほどよく効き、シャキシャキとした食感が、熱を帯びた舌をやさしく冷ましてくれた。 ナムルの皿に並ぶ野菜は、まるで旅の途中で出会う名もなき風景のように素朴だ。しかし、店の奥から漂ってくる胡麻と海苔の香りが、それをひとつの物語に変えてくれる。 そして驚いたのは丸ごと焼いたニンニクだ。 アルミ皿の中で黄金色の油をまとったそれは、小さな温泉に浸かっている旅人のようで、抜群に旨い。スプーンで軽く押すと、身がほろりと崩れ、香りが一気に広がる。疲れた身体の奥まで届く滋養を感じた。 さらにテーブルに運ばれたユッケ風の赤身肉。真ん中に落とされた濃厚な卵黄の光沢は、夜の月を思わせた。黄身を崩して赤身に絡めて口に運ぶと、官能以外の言葉が見つからない。彼女も小さく「美味しい」と呟いた。その声がタレより甘く、僕はその一瞬を忘れないだろう。 スープはやわらかい湯気とともに現れた。 卵がふわりと泳ぎ、細かい牛肉の旨味が透き通ったスープに沈んでいる。焼けた肉の余韻を優しく包み込み、もうひとつの旅への入り口をつくるような味だった。 肉を焼く煙の奥で、彼女が笑った。 その笑顔が、今日食べたどんな部位よりも心に染みた。 焼肉とは、単純な食事のようでいて、実は人の距離を一気に縮める不思議な力を持っている。皿の上の肉が焼けていく時間は、ふたりの会話と沈黙が入り混じる、たった一度きりの物語だ。 気がつけば、煙が少しだけ髪に移り、指先はタレの匂いを残している。 店を出た途端に冷たい夜風が頬を撫で、店内の赤い灯りが背中を照らす。まるで「また来いよ」と言われているようだった。 焼肉ここから 西葛西店。 この店の肉は、ただ旨いだけじゃない。 “ひと晩の記憶を深く濃くする力”を持っている。 そんな夜を過ごしたい人にこそすすめたい店だ。
2025/11訪問
1回
浅草橋という街は面白い。ビルと高架が幾重にも影を落とし、隅田川の風が道路の隙間をすり抜けていく。観光客が足早に通り過ぎる浅草とは違い、この街には、夜になると独特の静けさが満ちてくる。そんな町角に、ぽっと明かりをつけて迎えてくれる店がある。「骨付鳥、からあげ、ハイボール がブリチキン。」浅草橋店だ。 店の前に立つと、香ばしい匂いが鼻をくすぐる。くたびれた一日の終わりに、理屈ではなく本能が「ここでいい」と決めてしまう。引き戸をくぐると、店長が笑顔で出迎えてくれた。その笑顔は作り物ではない。常連にも一見にも同じ温度で向き合い、気さくに声をかけてくれる。愛想よく、しかし距離を詰めすぎない。酒場の空気をよく知った接客だ。 テーブルにつき、まずはハイボールを頼む。氷がグラスに触れてカランと鳴ると、それだけで肩の力が抜けていく。いつもの仲間とグラスを軽くぶつけ、「おつかれ」と小さな声を交わせば、それはもう宴の始まり。 最初に届いたのは名物の「がブリチキン」。からあげとは呼ばない。がぶり、といくための鶏だ。衣は薄く澄んだ黄金色。噛めば肉汁が滲み出し、舌に伝わる熱い衝撃に思わず口角が上がる。ブラックペッパーの刺激がハイボールとの相性を完璧に演出してくれる。ハイボールを流し込むたび、次のひとつを口に運ばずにはいられない。 そして、主役がやってくる。親鳥の骨付鳥。皿の上では艶やかな肉が堂々と構え、食べる者に覚悟を促す。若鳥にはない筋肉の反発。噛みしめると、じんわりと溢れる旨味が歯に、舌に、記憶に刻まれる。脂は控えめだが味は鋭い。長く生きて溜め込んだ力強さが、この一皿には宿っている。 店内では、仕事帰りの客たちがそれぞれの夜を語り合っている。愚痴も夢も、鶏と酒がすべて受け止めてくれる。この店には、そういう懐の深さがある。ふと視線を感じて振り向くと、店長が気にかけるように目を配っている。グラスが空になりそうなら、聞こえるか聞こえないかの声で「次、どうしましょう?」と笑う。こういう心地よさが、客を次の再訪へと導くのだ。 三杯目のハイボールに差し掛かるころ、笑いは大きく、話はくだらなく、夜そのものがやわらいでいく。仲間が言った。「せっかくだから、これでもかってくらい食おうぜ」。それは、ただの冗談ではなかった。唐揚げを追加し、骨付鳥をまた一本。限界を忘れた夜は、とても自由だ。 噛むほどに味の増す親鳥に、自分たちの人生が重なった。失敗や疲れを抱えても、こうして笑っていられる。ハイボールの泡が、今日を肯定してくれる。そんな瞬間の積み重ねこそ、きっと幸せというやつなのだ。 店を出る頃、浅草橋の夜風が少し冷たくなっていた。背中を押すのではなく、肩をそっと包み込むような、優しい風だ。店長の「ありがとうございました、またぜひ」が背中に追いかけてくる。その声は不思議と、自分の明日を元気づけてくれる。 鶏と酒と、いい人。 それさえ揃えば、夜はごちそうになる。 ここは、そんな夜を保証してくれる場所だ。