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山形の酒田という町は、海と風の町である。 その静かな昼下がりに、ふと見つけた小さなフレンチレストラン「Nico」。 観光でも仕事でもなく、ただ時間を持て余した結果、 自然と足がその扉へと向かった。 店内は明るく、窓からの光が白い皿の縁を柔らかく照らしていた。 調度品は簡素だが、どこか品がある。 皿やカトラリーの選び方に、料理人の性格が見えるようだった。 前菜のサラダには、 朝採れの野菜が瑞々しく盛られていた。 続くスープは、茸と海の香りが重なり、 口の中でゆっくりと層を成して溶けていく。 その温かさが、旅の空気とよく馴染んでいた。 メインもまた地元の素材を使い、 一皿ごとに土地の息づかいを感じる。 特別な技巧を誇示するわけでもなく、 ただ誠実に“昼の一食”を形にしている。 ふと思った。 昼という時間は、 一日の中で最も現実と夢の境が曖昧になる。 この町の空気もまた、 そんな微睡みの中にあるのかもしれない。 食後のコーヒーを飲み干し、 外に出ると、港から風が吹いてきた。 それは塩の匂いを運び、 私の頬に触れて通り過ぎた。 その瞬間、 「また来よう」と思った。 理由は特にない。 ただ、もう一度この穏やかな昼を味わいたいだけだ。
2025/10訪問
1回
友人が急な用事で来られなくなり、 結果として私は、二人で予約していたジンギスカンを 一人で食べることになった。 こういう時、人は少しだけ自由になり、 同時に少しだけ寂しくなる。 店の名は「ひつじや」。 場所はかなり奥まっている。 雪の夜、目印も少なく、 風に煽られながら探し回った末に見つけたのは、 まるで雪原の中に取り残されたような小さな木造の建物だった。 孤独という言葉が、景色として成立している。 ジンギスカンは単純な料理である。 肉を焼き、食べる。 だが、単純だからこそ誤魔化しが利かない。 羊肉は特にそうだ。 肉質が硬ければ最後まで硬い。 臭みが出れば、それがすべてを覆う。 そして、タレが合わなければ、 一気にただの作業になる。 ひつじやの羊は、柔らかかった。 火を入れても身が締まり過ぎず、 噛めば素直にほどけていく。 そこに店のタレをつけると、 羊の旨味が妙に伸び、 脂の甘さがきちんと輪郭を持って口に広がる。 風雪の中で辿り着いたという事実が、 この一皿の温かさを余計に確かなものにしていた。 外が寒ければ寒いほど、 人は熱い鉄板の前で、少しだけ救われる。 二人分の予約を一人で消化する夜は、 本来なら少し滑稽で、少し損な話かもしれない。 だが雪の中の小さな木屋で食べた羊肉は、 静かに「来て良かった」と思わせる力を持っていた。 また、誰かと来ても良いし、 一人で来ても良い。 そんな店である。
2026/01訪問
1回
山形市を訪れたなら、「十四代」という名酒を一度は口にしてみたい、 そう思う人は少なくないだろう。 しかしこの酒は、いつの間にか日本酒という枠を離れ、 投機と演出に包まれた“特権の象徴”へと姿を変えてしまった。 一本で数十万円。 東京に住んでいても、気軽に出会えるものではない。 そんな現実の中で訪れたのが、居酒屋「伝七」である。 店内はどこか温かく、 外国人客の姿も多い。 ここが静かに“知られてしまった店”であることは、 その光景からすぐに分かる。 料理は実に素朴で、 良く言えば伝統的、 正直に言えば、味そのものに強い印象は残らない。 しかし、この店の価値は皿の上ではなく、 盃の中にある。 ここでは、 十四代の各種上位酒を、 驚くほど現実的な価格で口にすることができる。 本来、酒とは人の喉を潤し、 場を和ませるためのものであったはずだ。 この店では、 その本来の姿が、かろうじて保たれている。 十四代が市場の外で神話化されていく中、 伝七という居酒屋は、 酒蔵が“普通の人間のため”に残した、 最後の体面のようにも思えた。 ここで飲む一杯は、 希少性ではなく、 時間と場所と人の温度を含んでいる。 それだけで、十分に意味がある。
2026/01訪問
1回
山形・新庄で撮影をしている最中、 地元の人たちから口を揃えて勧められたのが、 鶏もつラーメンだった。 「新庄に来たなら、これを食べない理由はない」 そう言われて足を運んだのが、この梅屋である。 結果から言えば、 この土地ならではの料理が持つ力を、 改めて思い知らされた一杯だった。 店の外では雪が激しく舞い、 頬に触れる空気は痛いほど冷たい。 その寒さを背負ったまま暖簾をくぐり、 湯気を立てる鶏もつラーメンを前にすると、 外と内の世界が、はっきりと分かたれる。 鶏もつは丁寧に下処理され、 臭みは一切なく、 甘辛さとコクがしっかりと立っている。 噛むたびに旨味が広がり、 内臓特有の力強さが、寒さで鈍った身体を一気に目覚めさせる。 鶏ガラのスープも見事で、 過度な主張はせず、 しかし確かな温度と深みをもって胃の奥まで届く。 一口、また一口と啜るうちに、 身体だけでなく、気持ちまで緩んでいくのが分かる。 こうした料理は、 都会の洗練された味とは別の場所にある。 土地の気候と生活、そのままを器に盛ったような一杯だ。 雪の新庄で食べた鶏もつラーメンは、 味としてだけでなく、 体験として強く記憶に残る料理だった。 地方に来てこそ出会える、 間違いなく勧めたい一軒である。
2026/01訪問
1回
米沢を通りかかったなら、 米沢牛を食べずに通過する理由はない。 そう思って訪れたのが「米沢牛亭ぐっど」だった。 行列を覚悟していたが、意外にも店内は落ち着いており、 静かに席へ案内された。 店の看板はステーキ。 運ばれてきた肉は、見るからに脂が豊かで、 焼き色も美しい。 ひと口目は確かに香り高く、 いわゆる「口の中で溶ける」という表現も理解できる。 しかし、その溶け方は同時に、 強烈な脂の存在感を伴っていた。 重い。 とにかく重い。 米沢牛の個性なのかもしれないが、 このステーキという調理法は、 その脂の量を正面から増幅させてしまっているように感じられた。 旨いことは疑いようがない。 だが、箸が進むにつれ、 香ばしさよりも油が前に出てくる。 食べる側には、 明確な“覚悟”と、 しっかりした口直しが求められる。 米沢牛という素材の力は確かだ。 ただし、それをどう受け取るかは、 料理法と食べ手の耐性に大きく左右される。 強烈な印象を残す一方で、 静かに胃袋と向き合う時間も必要な一軒だった。
2026/01訪問
1回
旅先の山形・鶴岡。 予約もせずに「どこか空いている店でいいか」と軽い気持ちで探していたら、 駅近くにあった「銀次」に辿り着いた。 ——そして、この店が教えてくれたのは、**“地方で予約なしに食事をしようとする者は罰を受ける”**という厳しい現実だった。 海の近くにある町だからこそ、当然新鮮な魚介が食べられると思うのが人情。 しかしここでは、その期待が見事に裏切られる。 素材の鮮度は感じられず、海の香りどころか、 「海辺で暮らしても新鮮な魚は出さない」という商売哲学が貫かれているようだ。 見た目は華やかで、店員の笑顔も丁寧。 だが、その笑顔は粗悪な食材を隠すための仮面に過ぎない。 口当たりの悪い刺身、香りのない焼き魚。 どれも「海の町・鶴岡」を名乗るにはあまりに寂しい内容だった。 食後、店を出る頃には、他に客がほとんどいない理由にも納得。 ここでの食事体験は、まるで“罰ゲーム”のようだった。
2025/10訪問
1回
本来は山形の蕎麦を味わうつもりで、 「つくも」という店に入った。 暖簾をくぐった瞬間、 店内に満ちていたのは、蕎麦の香りではなく、 はっきりとした天ぷらの油の匂いだった。 その時になって初めて、 ここは蕎麦と天ぷら、両方を出す店なのだと気づく。 席は空いている。 それでも待ち時間は三十分ほど。 どうやらご夫婦二人で切り盛りしているらしく、 人手が足りていないのだろう。 正直なところ、その時点では、 「これは蕎麦屋としてどうなのだろう」と 少し構えていた。 だが、天ぷらを口にした瞬間、 その疑念はすべて意味を失った。 品数は多くない。 しかし、一つ一つが驚くほど完成度が高い。 素材の選び方、火の入れ方、 衣の軽さと歯切れの良さ。 どれを取っても妥協がなく、 下手な言い方をすれば、 東京の多くのミシュラン天ぷらよりも よほど真っ直ぐで、よほど美味い。 脂は重くない。 揚げ物でありながら、 どこか素朴で、生活に近い味がする。 それでいて、 料理としての水準は極めて高い。 地方には、 こうした「声高に名乗らぬ名店」が まだ確かに息づいているのだと、 この天ぷらは静かに教えてくれた。 伊勢海老の天ぷらを含むコースで、 会計は6000円に届かない。 理屈を超えて、 もはや“奇跡”に近い。 気取らず、 誇らず、 ただ黙々と揚げ続ける。 長く高級料理に慣れた身だからこそ、 この一食が、 心から愉快だったと言える。 間違いなく、 また足を運ぶ店である。