ウィーンの森の物語さんが投稿した水光庵(東京/三田)の口コミ詳細

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美食考察記:科学的見地・文化的見地、双方による美食の考察

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移転水光庵田町、三田、赤羽橋/日本料理

1

  • 夜の点数:-

    • ¥20,000~¥29,999 / 1人
      • 料理・味 -
      • |サービス -
      • |雰囲気 -
      • |CP -
      • |酒・ドリンク -
1回目

2019/07 訪問

  • 夜の点数:-

    • [ 料理・味-
    • | サービス-
    • | 雰囲気-
    • | CP-
    • | 酒・ドリンク-
    ¥20,000~¥29,999
    / 1人

美食考察記 第一話

住所非公開、会員制、紹介制、一日一組限定。尊敬する美食家の先輩に納涼茶会にお招き戴きました。

店は港区にあるマンションの一室。寄付待合では水出しのお茶が振る舞われ、氷水の中でも元気よく泳ぎ回る鮎をじっと見つめながら、参加者一同は涼を得るのです。室内には水明書道会の講師でもある主直筆による「老子の水の教え=上善若水」の書。最高の生き方とは水のように生きること。恐らく、主である石田さんの座右の銘でもあり、店名の一文字も…と勝手に解釈しましたが、現代社会において、これがなかなか難しいのです。

茶会の準備が整うと、躙口に身体をねじらせ、茶室という聖なる異空間へと誘われます。茶室において特別な意味を持つ床の間。茶会のテーマとなる掛け軸が掲げられ、置物や活きた花を飾ることで御持て成しの心を表し、招かれた客はその想いを受け止めます。当日は元号改元と七夕のご趣向の格調高いお席。軸は菊の御紋入りで有栖川幟仁親王様の筆によるもの。花入は明時代の古銅龍耳、花は檜扇。祇園祭りではお馴染みの魔除けの花だそうです。お茶請けは自家製の酢橘と新牛蒡。風炉の季節の底の浅い夏茶碗で薄茶を立てて戴きました。日本の軟水によって甘味と旨味が引き立てられる抹茶。茶道の確立に伴い安土桃山時代に花開き、味や姿、季節感で茶会を盛り立てる和菓子。牛蒡は日本でしか食べられていない食材。文化ですね!和敬清寂、利休七則、真・行・草…茶室は無限の広がりを見せる宇宙。自分は如何に無知でちっぽけな存在であるかを悟り、ただ己を恥じるばかり。

続いて、食事。本席ではなく立礼の席なので、私のような正座に不慣れな者でも気軽に楽しむことが出来るのです。

<八寸>
インカの目覚めのマッシュポテト、煮蛸のジュレ、鱧寿司、車海老の艶煮、枝豆
薩摩芋の蜜煮、ヤマモモ、牛肉のしぐれ煮(金の包みの中)、飴がけの胡桃(ほおづきの中)

八寸と御椀は日本料理の要であり、八寸は視覚、御椀は嗅覚及び味覚を通じて精神世界に深く問いかける側面が強いと感じます。演出だけでなく、食材自体にも季節感、節句、年中行事等の意味が込められている為、味以外の要素まで考えねばならず、食べ手側に知識や教養、日本文化に対する敬意や自然に対する感謝の念、美意識や想像力まで求められます。日本の節句は人日、上巳、端午、七夕、重陽の五つ。今回は七夕の趣向ということもあり、七夕に由来する植物、隈笹やほおづき、梶の葉が配され、また、コース全体にガラスの器を多く用いることで涼を演出していました。右向こうに海のもの、左手前に山のものを盛り、手前に両細の青竹箸を濡らし、露を切って斜めに添えるのが基本。植物や器を用いて、彩や空間バランスを計算しながら食材を引き立て、その背景を表現するのは日本料理ならではの素晴らしさです。

<御椀:淡路沼島の鱧と蓴菜の椀>
日本料理の華とも言うべき椀。吸い地に利尻と真昆布の二種の昆布を使用しており、香りと余韻、そして透明感のある旨味がゆっくりと口中に広がる実に印象深い椀でした。茶室文化の京都人に愛された利尻、商人文化の大阪人に愛された真昆布。双方共うま味の主成分はグルタミン酸とアスパラギン酸ですが、同じ昆布でも旨味や香りの出方が異なるのです。節と昆布の組み合わせではなく、産地の異なる昆布を組み合わせることで味に奥行きを出すのは、味のブレを考えると、作り手の舌が余程鋭敏でなければ真似出来ないでしょう。椀種は夏を象徴する食材の一つである鱧と梅肉、椀妻には青柚子。鱧は韓国ではなく、敢えて淡路沼島産を使用とのこと。遠い昔「沼島の春よ再び」という集団お見合い番組がありましたが、(笑)鱧も有名なのです。近年、柔らかく脂の強い韓国産の鱧が重宝されておりますが、個人的に椀では、その脂が少し過ぎると感じることがあります。淡路の鱧自体も上品な味わいであったことに加え、主の卓越した包丁技により、身のふんわりと滑らかな食感が完璧に引き出されていました。

<御造り:縞鯵と紋甲烏賊>
縞鯵は一日寝かせたもので抜群の旨味と香り。産地は三重県とだけ仰っていましたが、三重では片田沖の名をよく耳にします。紋甲烏賊は三日寝かせたものでトロリとした甘味とコリコリとした食感。鮮度の良い烏賊を重宝がる人も多いですが、寝かせなければ旨味は出ません。また、鱧同様、縞鯵の皮目や烏賊の身に施された緻密な包丁仕事にも圧倒されたのです。私が思うに、切るという動作一つとっても、装飾性しか考えないか、どのように包丁を施せば食感や旨味を最大限に引き出せるかまで考えるか、職人のセンスはそういった所にこそ表れる気がします。日本の生魚食の文化を支えるのは、言うまでもなく世界一の切れ味を誇る日本の包丁、そしてそれを使いこなす職人の存在。単に「切る」という動作を芸術の域まで高めている料理は、他国では知りません。中国の一流職人の(特に野菜類の)包丁技も目を見張るものがありますが、私見で火入れや食感を引き出す意味合いが強く、素材の繊維質を壊さず香りや甘味を引き出す技術、特に魚については日本には到底及びません。なお、生魚を食べる文化は日本以外に太平洋を囲む広大な沿岸地域にも散見されますが、山水に盛り付け、食べ手に自然の景観まで起想させるまでの拘りを持つのは日本人だけです。

<箸休:半田手延べ素麺>
素麺は七夕を象徴する食材の一つ。一説によると1,200年も前から行事食として口にされていたそうです。素麺は半田の手延べ素麺。その上には蓮根のすり流し、雲丹、花穂紫蘇。麺は冷麦を思わせるモチモチとした独特の食感で、濃厚な味わいの雲丹、鰹をきかせた出汁と程好く調和します。

<焼物:鮎>
大量の笹の葉の上に割った青竹、その上に鮎が盛り付けられ、炭で焼いた香りと、その演出の妙に歓声が上がります。鮎は琵琶湖の稚魚を清滝川に放流したものとのこと。「近江商人と琵琶湖の鮎は外に出て大きくなる」という言葉がありますが鮎はやや小ぶりのもの。鮎のDNAは大きく分けると6種あり、琵琶湖の鮎だけは特殊だと言われています。鮎は言うまでもなく、高い焼きの技術を求められる魚の一つ。鮎の味質は繊細かつ、また、海の魚比べ川魚は全体的に脂が少ないので、焼きが強いと身がスカスカになり、弱いと(川魚)特有のニオイが鼻につくのです。まずはしっかりと水分を抜き、脂を逃さぬよう丁寧に焼き上げます。頭はカリッと、中は内臓があるのでジューシィに、尻尾はカラカラ…が理想ですが、これが難しく、職人によって大きく差が出ます。こちらの鮎は、火入れの高い技術を感じさせるもので、化粧塩も過度に施されておらず、尻尾まで美味しく戴けました。実は魚を直火で焼くという文化は世界でも珍しく、地中海沿岸の一部の地域でも文化がありますが、プランクの法則に則り熱源にまで拘った火入れを実践しているのは日本人だけでしょう。

<冷製焚合>
素揚げした万願寺唐辛子・茄子・南瓜に二番出汁の旨味、添えられた青柚子の香りと茗荷の辛味が夏の到来を感じさせます。個人的に冬は出汁、夏の野菜は油との相性の良さを感じるものが特に多い印象があります。

<浜名湖の鰻と出汁巻き玉子>
鰻は小ぶりで炭火でパリッと焼かれており、甘味のあるタレが食欲を掻き立てます。出汁巻きは一点の雑味もない優しいお味。家庭で熱伝導に優れた銅製の玉子焼き器を使ってもこのように見事には仕上がりません。これぞプロのお仕事です。

<鮎とオクラのご飯>
伊賀の土楽のような分厚い形状の土鍋で炊かれた御飯。デンプン質の多いジャポニカ米は加減が難しく、職人の技量が問われるのです。鮎は先程の焼き鮎とは熱の入り方が異なるしっとりとした味わい。米は一粒一粒がしっかり立っており、噛み締める度に鮎の身と骨で取った上品な出汁の香りと旨味、仄かな苦みが鼻腔を擽ります。オクラは敢えて大きめに切ることで、従来のネバネバではなくザックリとした心地よい食感、そして彩までも楽しめました。添え物にはニガウリの胡麻和え。箸休めに口にすると、味覚の方程式に則り、ニガウリの苦みが鮎や米自体の旨味や甘みを引き立てます。

<自家製カラスミご飯>
米(プレーンライス)の調理法は、大きく分けると従来の炊き干し法、大量の水で煮る湯取り法、蒸して食べる方法の3つがあります。締めの?ご飯は、湯取り法で炊き上げた龍の瞳というブランド米の上に自家製のカラスミをのせて戴きました。龍の瞳はコシヒカリの1.5倍の大きさを誇る大粒米でしっかりとした甘みと粘り気があり、しっとりとした舌触りと繊細な旨味を合わせ持つ自家製のカラスミと非常によく合います。カラスミはサルディーニャのような熟成感の強い黒みがかったものではなく、綺麗な山吹色。白米との対比によるインスタ映えは勿論(笑)、味自体も絶品でした。

<濃茶のかき氷>
茶会の締めの代用の濃茶と解釈。白蜜に丹波の小豆と白玉という組み合わせ。彩は勿論、抹茶自体のうま味が兎に角味わい深いかき氷。個人的に抹茶系のかき氷としては、都内ではマンション二階にある某店と双璧かもしれません。茶は安土桃山時代、権力の象徴ともされ、日本の文化を支えて来ました。軟水文化である日本に緑茶が根付き、硬水文化である欧州に紅茶の文化が根付く。日本の食文化を遡ると、日本料理は、この水に支えられている部分が大きいのです。

当日は8名の参加者でしたが、可能な限り、より美味しく料理を提供しようとする主の気持ちが料理全体を通して伝わりました。例えば、八寸の車海老は熱を入れた瞬間から食感と甘味が損なわれますが、しっとりとした質感と甘味が残っていました。また、鰹節は削った瞬間から酸化するので、時間に合わせて用意しなければ、あの椀物の味と香りは出ません。主は語らずとも味は饒舌なのです。

私は、今回、こちらで一期一会の食体験を通して「人間が食べるということ」、そして「日本料理」について改めて深く考えさせられました。同時に、それを知ることは非常に大切なので、おこがましくも、以下に私の所見を述べたいと思います。

アメリカの心理学者アブラハム・マズローが「人間は自己実現に向かって絶えず成長する生きものである」と仮定し、欲求5段階説を提唱しました。第1段階の生きて行く為に必要な、基本的・本能的な欲求を生理的欲求とし、食欲、排泄欲、睡眠欲の3つを挙げました。人間と動物は「食べること」を通して栄養素を摂取することで活動のエネルギーを得るだけでなく、自らを新たに作り出している点は同じです。チャールズ・ダーウィンは「言語を除き、人類が生み出した最大の発明は料理」と主張しましたが、人間が他の動物と決定的に異なる点は、食べること自体を楽しみとして「深く訴求する」という点にあります。

人類の歴史と食文化は常に隣り合わせであることは、数々の事例が物語っています。旧約聖書に登場する生命の樹はナツメヤシであり、古代バビロニアでは国家の貴重な農産物としてハンムラビ法典で条文化していました。エジプトのピラミッド建造の際に労働者の貴重な栄養源となったタマネギ。香辛料を求めた大航海時代により海上貿易が発展し、コロンブスによってアメリカ大陸が発見され、その航海によりもたらされたトマトや唐辛子を初めとした多くの農産物は世界の食文化を一変させ、また歴史をも大きく動かします。その代表的なのはジャガイモ。貧者のパンとして庶民の胃袋を支えフランス革命の原動力となり、また、アイルランドで起きたジャガイモの飢饉は、ケネディ家をアメリカ移住へと決断させ、後に第35代アメリカ合衆国大統領となるジョン・F・ケネディ等を輩出するアメリカを代表する名門一族となるのです。世界の交易品となり植民地制度と奴隷貿易を生んだ砂糖、茶、カカオ。中国西部のタクラマカン砂漠に起源を持ち3,000年以上も前から栽培され、知将、石田光成に最後の食事として指名されたニラ。薩摩藩の莫大な収入源となり討幕を支えた昆布。日本初の政党内閣、平民宰相誕生に一役買った富山の米騒動。農産物の過剰生産による農業不況の結果が引き金となった1929年に始まる世界大恐慌。歴史上の大きな出来事を紐解いてみると食(材)に関わる多くの物語が隠されているのです。

地球の誕生から46億年。進化論は諸説ありますが、最初の有機化合物は38億年程前に太古の海の原始スープで作られたと言われています。長い年月を経て単細胞生物が多細胞生物へと進化し、やがて海から陸へと上がり、幾度となく繰り返される天変地異により環境に適した生物だけが生き残り、生命は進化して行きました。地球史と生命の進化を語る上で外せないのが6,600万年前にユカタン半島に落下した巨大隕石。これにより空気中に巻き上がった大量の粉塵と二酸化炭素が生命の源である太陽光を遮断し、硫酸ガスが酸性雨となって大量に降り注ぐことで、地球上の多くの生物が死滅します。しかし、これは同時に新しい生命形態の発達の為の理想的な生息環境を作り出したとも言われます。

我々人類の祖先は500~700万年前にアフリカで産声を上げました。ヒトとチンパンジーのDNAの塩基配列は約98.8%まで同じで、共通祖先から分かれたと言われていますが、両者を分ける代表的な特徴は「言語と火の使用」です。人類は二足歩行を開始することで、手に道具を持つこと、そして脳の容量を大きくする生物学的な環境が整い、また、口腔と咽頭腔が直角になり咽頭が下に移動することで複雑な言語を用いて情報を伝達することが可能となりました。そして火の使用により、食材を過熱調理し、複雑な炭水化物を分解したんぱく質を消化しやすい形に変える=カロリー摂取の効率化が図られ、集団生活をする必要性(狩猟を行い、共に食事をすること)が生じることで、他人を思いやる心や協調性が生まれ、言語の発達が促され、知恵が育まれたのです。そして人類は、ホモ・サピエンスに進化をしながら16万年前頃にはアフリカ大陸からの移動を開始し、アラビア半島を経て、中東からヨーロッパやアジア、そしてオセアニアやアメリカ大陸へと広がって行きました。この全世界への拡散が所謂「グレートジャーニー」であり、人類が数万年という長い年月を経て、それぞれの環境に順応するように進化した結果、白色人種(コーカソイド)、黒色人種(ネグロイド)、黄色人種(モンゴロイド)、オーストフレシア人(オーストロイド)等の多様な人種が誕生したのです。

人類が日本列島に到達したのは、後期旧石器時代の4万年前~3万年前と言われています。当時は洞窟に住みながら、貴重なタンパク源であるナウマンゾウ等の大型獣を打製石器を用いて追い、移動を続ける生活でした。しかし、2万年ほど前に大陸氷河の後退が始まり、気候が次第に温暖化してくると、これまで重要なタンパク源としていた大型獣は北上し、人間の生活圏内から遠ざかることで、やがて食糧難が訪れます。そのような背景もあり、当時の日本人は、約1万5000年前の縄文時代に入ると、竪穴式住居に定住し、狩猟、採収と漁労を中心とする生活へと切り替えるのです。弓矢や骨角器、磨製石器の使用、貝塚の形成等も大きな特徴ですが、土器の発明により、食材を焼くだけでなく、加熱による灰汁抜きや煮炊きが可能となったことは、食を語る上では極めて重要な出来事と言えるでしょう。1万年前に最終氷河期が終わると、気候が急速に温暖になり日本列島の地形と生態系は大きく変化します。寒冷な気候で生育していた針葉樹林は後退し、常緑照葉樹、落葉広葉樹が繁茂し始めます。当時の日本列島は非常に食材の豊かな地域であったようです。

縄文後期から弥生時代にかけて大陸から稲作が複数回に渡って伝来します。日本の稲作の起源は長江流域とも言われておりますが、4,200年前の気候変動により長江にあった巨大文明が崩壊し、ボートピープルと化した呉越の人々が稲作と共に養蚕の技術、(呉)服の織り方等を伝えたこと。そして、現在の日本でも越のつく旧国名の地域は米処となっている点等は歴史背景的に興味が尽きないところです。当初、米は狩猟だけでは食料が不足するという時に補うという存在でしたが、稲作が浸透するにつれ米を主食としておかずを食べる現在のスタイルへと派生したようです。現在の世界の三大主食は米、麦、トウモロコシですが、古代文明の主食について調べてみると、メソポタミアやエジプト、インダス文明は麦、黄河文明は大豆や粟を中心とした畑作、長江文明は米、アステカやマヤ文明はトウモロコシと現代と大きく変わらないのが分かります。米の栽培には温暖湿潤でなければならず、暖かく湿った地域で大量の水を必要とすることから、アジアモンスーンが吹いて雨季に沢山の雨をもたらせてくれる日本の風土が適していたのです。現在、日本人は、米について種類、品質、産地、栽培方法、風味、炊飯、茶碗、箸…と、世界で最も拘る民族と言われていますが、古来より日本には豊葦原瑞穂国なる美称があり、当時から米に対する特別な意識が伺えます。伝統芸能の歌舞伎や国技の相撲等も稲作の儀式から派生したものであるし、祈年祭、新嘗祭は言うまでもなく、桜の花見、かまくら等も米の豊作祈念の意味が込められています。奈良時代の班田収授法に始まり、中世の荘園制度、江戸時代の石高制と続き、明治になるまで米の収穫を経済の基盤とする米本位制が1300年間もの続いた非常に特殊な国であり、我が国の物流通網の基盤も遡ると米によって築かれたのです。古来より、米は天皇が祭祀を司る聖なる食べ物と見なされており、祭祀の終わりには、(米を)発酵させたサケを飲み、神と同化し、参加者一同で回し飲みすることで仲間意識を高め、五穀豊穣を願ったのです。

弥生時代の大きな特徴の一つは、縄文時代の採集経済から水稲耕作による生産経済への移行です。世界の歴史を振り返ると、まず、農耕によって人口が飛躍的に増加し、蓄えによる富の格差=階級差が生じ、部族間で富を奪い合うことで、より大きな集団へと統合され、社会階層が分かれて王国(国)となる。また、目に見えない巨大な自然の力を神として崇めることで、思想的な統一を図り、文明は築かれて行くという大きな流れがあります。日本も同様に、集団からムラ、そしてクニとなり、クニ同士の争いから後に大和朝廷が誕生するのです。奈良時代に入り、中国、朝鮮との交流が盛んになると、食物や食事の慣習を積極的に吸収しつつ、日本人の嗜好や習慣に合うものに再編成して行きます。日本は四方を海によって隔絶された地理的条件にあった為、選択的に必要な部分だけ取り入れ、日本の風土に合うように変容させることが可能だった訳です。また、身分による食の階層化が生じた時代でもあり、当時の天皇や貴族は驚く程多くの食材を用いた料理を口にしていたようです。なお、当時は調理の工程で味を付けるのではなく、各自が小皿に入れた塩・醤・酢等で調味して口にしていたようです。675年に天武天皇が肉食禁止令を発布すると、以降、日本人の肉食が激減しますが、これは禁止令の浸透以上に、肉食をすると稲が不作になるという畏怖が当時の人々の心理にあったことも大きいと言われています。米や魚でたんぱく質を摂取するという基礎は、こうした過程により構築されたのです。平安時代には、公家によるお客を持て成す料理様式、大饗料理が形作られます。894年に菅原道真の進言によって遣唐使が廃止となると、日本文化の独自性が発揮し始めます。

鎌倉時代、宋から帰国した禅宗僧侶により精進料理が広められます。その中でも特に有名なのは、「喫茶養生記」を記し、茶の重要性を説いた臨済宗の開祖、栄西と「典座教訓」、「赴粥飯法」等を記して、食事の尊さを説いた曹洞宗の開祖、道元です。私達が、食前、食後に「いただきます」、「ごちそうさま」と唱えて食べ物となってくれた生き物の命と食事作りをしてくれた人々に感謝するのは道元による食事作法です。精進料理は調味料、調理技術、お持て成しの概念において、その後の懐石料理、本膳料理に大きな影響を及ぼします。豆腐、納豆、味噌等の大豆加工品と胡麻油の使用は、その一例と言えます。室町時代になると、武家により、大饗料理の儀式的要素と精進料理の技術的要素が組み合わされた現在の日本料理の源流となる本膳料理が形作られます。1300年代後半になると昆布出汁、続いて鰹出汁の使用が始まります。安土桃山時代になると千利休により茶道が確立され、その茶道から懐石料理が派生するのです。茶の湯には一期一会という考え方があり、いかに人を持て成すか、その時の出会いが常に最上のものとなるよう、季節の旬の食材と、それを活かした調理法、盛り付けの器や設えまで注力しており、茶の湯の高い精神性が、懐石だけでなく今日の日本料理全般にも受け継がれているのです。また、この頃にはイスパニアやポルトガルの宣教師が次々来航したことで南蛮貿易が始まり、天婦羅のルーツとも言われるクアトロ・テンプラシ等の南蛮料理の他、金平糖、有平糖、ぼうろ、カステラなど卵と砂糖をふんだんに使用した南蛮菓子が輸入されるようになります。

江戸時代になると、味噌、醤油、酢、味醂等の発酵調味料が広く使用されるようになります。その背景には、調味料製造の際に必要となる塩が揚浜製塩法から入浜式製塩法へとシフトしたことで大量製造が可能=入手が容易となったことや、菱垣廻船、樽廻船、北前船、高瀬舟等の海上や河川輸送の発達、五街道の整備が挙げられます。1700年代の江戸中期、享保の頃になると、鰻、すし、天婦羅、蕎麦の屋台が登場し、江戸後期の宝暦天明から文化文政期には料亭で本膳と懐石の双方を受け継いだ会席料理が出されるようになります。当時の江戸は、世界一の人口を誇る都市であり、また、単身赴任者の割合が多かったことから外食産業が発達したのです。

明治に入ると、文明開化をスローガンに殖産興業、富国強兵の近代化路線を歩み始め、その一環として、政府主導によって牛肉、乳製品の摂取が推奨されます。しかし、仏教の戒律を守り、1200年もの間、肉食=穢れという概念が定着していた日本において、すぐには普及しなかったようです。しかし、明治後期から大正にかけて西洋料理が和洋折衷型の洋食として徐々に人気を博すようになります。日本の食文化の歴史を時系列で捉えると、中国・朝鮮→南蛮→欧米と食材や調理技術を巧みに取り込み、独自性を加えながら、今日の食の形態まで進化、変容させていったのは一目瞭然なのです。

文明開化以降、日本を取り巻く外部環境は目まぐるしく変化しました。大正デモクラシー、関東大震災、GHQによる食料の統制、「もはや戦後ではない」といわれた55年、日本経済は、神武景気、岩戸景気と言われた上昇期を経て、50年代後半から60年代に至る高度成長期を迎え、1985年のプラザ合意を契機に為替相場が円高に推移、製造業の成熟化、また、軽工業から重化学工業、加工貿易型から水平貿易型の貿易構造へと変容します。そのような状況下において、日本は年功賃金、終身雇用、企業別組合の三種の神器、所謂、日本的雇用慣行を柱に世界に誇る経済大国を築き上げました。本年、IMDによって発表された我が国の国際競争力は30位にまで低下し、具体的な打開策が見える気配もなく、少子高齢化により、最早、衰退の一途を辿りつつあるものの、現在でも世界第4位の貿易大国であるというのは事実です。

日本は経済的には豊かになりました。しかし真に豊かなのかというと疑問が残ります。スーパーには年間を通して、品種改良による野菜が旬を問わず並び、便利にはなりましたが、これにより現代人には旬という概念がなくなりつつあります。また、食料自給率は(カロリーベースで)40%を切りながら食材廃棄率は世界一であるという直視すべき現実もあります。第二次世界大戦以降、戦後のGHQによる食料政策の一環として全国の学校に給食が導入され、パン食(小麦)の普及が図られます。今では、日本人の最も重要な植物性タンパク質の一つである大豆、そして、第二の主食と化した小麦の大半は米国からの輸入です。要は、敗戦の代償として日本人は胃袋を米国に握られてしまったのです。近年は自然破壊や異常気象により、都心部で虫の鳴き声や鳥のさえずりを聞く機会が殆どなくなりました。年中行事も形骸化しつつあり、それを行う意味すらわからなくなっている人も散見されるようになりました。お節料理は、その代表的な例かもしれません。最早、日本人の四季の概念は自然からではなく、イベント等の巨大資本のマーケティング戦略の一環によって支えられていると言っても過言ではありません。市場原理主義に付随する経済の合理化は、自然やその国の文化をも破壊する危険性を常に孕んでいるのです。

日本の豊かな食材を育んでいるのは、その地理的な特殊性にあります。国土は北海道から沖縄まで東西3,000キロ、南北に3,500キロメートルに及び、北は亜寒帯、本州は温帯モンスーン地帯、南部は亜熱帯気候に属しており、そのバラエティに富む気候とその土地で暮らす人々の経験と知恵が多くの特産物を生み出しました。また、国土全般に共通する高温多湿な環境は、ニホンコウジカビの働きを促し、優れた発酵食文化が醸成されたのです。一方、日本列島を取り囲む海域に目を向けると、世界の商用魚類の15%超に当たる約4,000種類以上もの魚類が生息する世界でも指折りの水産資源大国となっています。これは、親潮、黒潮、対馬海流、リマン海流といった四つの海流の存在だけでなく、国土の七割が山に海が隣接し、三万余りの流れの速い川が毛細血管のように国土中を流れているので、天から降り注いだ雨水が山林の豊かな養分を吸収し、川から海へと注ぐ、複雑な地の利も大きいのです。また、日本の土壌は花崗岩主体であり沿岸部から列島中央の山間部まで比較的短い距離の中で標高差があることからミネラル分が吸収される時間が短く軟水の文化が生まれたのです。このような恵まれた自然環境により、海沿いでは魚介類や海藻類等の採取、養殖、加工技術が発達し、山里ではジビエやキノコ類、山菜類、川魚等を使った特色ある郷土料理が地域毎に根付いているのです。更に日本の国土は、特急新幹線、鉄道や幹線道路によって地方と主要都市が短時間で移動が可能であることから、食材や人の往来が盛んであるのも特筆すべき点です。東京は世界中から食材や技術、人が集約される美食の都市であり足し算料理を得意とする。また、江戸期より独自に進化した鮨や天麩羅には出汁とは異なる形で素材を昇華させる高い技術があります。一方、西の京都や大阪には公家、茶人、商人によって育まれた食文化があり、出汁を用いて素材を活かす技術、所謂、引き算料理を得意とする。特徴ある郷土の食材と都市部の技術、美意識が互いに影響を与え合うことで、料理は洗練、昇華され、今日の世界に誇る日本の食文化が構築されたのです。

これまで日本を中心に人類と食との関わりについて述べて来ましたが、その歴史の大半は、飢えとの戦いでした。今でこそ食べるという行為が、生きる為に必要なエネルギーを摂取することから、味を多面的に訴求し、カメラで撮影し、目や記憶でも楽しめる時代へとなりましたが、その過程において多くの命が失われていったのです。なお、味覚は(現代では)グルメの指標とされていますが、本来は、人間が生き延びる為の感覚器の一つであり、甘味は糖の存在、塩味はミネラルの存在、酸味は腐敗物の存在、苦味はアルカロイドの存在、うま味はタンパク質の存在を脳に知らせる役割があります。生命の維持に最も必要な糖、脂肪、炭水化物は、人が本能的に美味しいと感じ味であり、これらを摂取することにより、β―エンドルフィンが放出し脳の報酬系に作用して多幸感が生じるのです。これは、人類が進化の過程で身に付けた脳に摂取を促す重要な本能でしたが、現代は、これらの過剰摂取が肥満や生活習慣病を引き起こし、社会問題となっている皮肉があります。

地球上に生息する植物や動物、微生物といった全ての生き物は、土や水、大気という環境の中で生命活動を営んでいます。植物は無機物から有機物を生産、植物を食べる動物は有機物を消費し、動物の排泄物および死骸は菌類が分解して無機物へと還元する。要は、地球という惑星は、太陽光線をエネルギー源とし、無機的環境―生産者―消費者―分解者―無機的環境へと物質の有機化・無機化の過程を通して循環させることにより営まれているのです。我々人類もそれを構成する一員であり、地球全体の生態系、そして付随する炭素、窒素、リンといった物質の流れを把握し、かつ最も大きなエネルギーを利用する生物として復元力を意識した活動をする責任がある訳です。しかし、産業革命により、これまでの太陽エネルギーから埋蔵エネルギーへとシフトし、自然の摂理さえも凌駕する巨大な力を手に入れた人類は、その立場を忘れつつあります。

古来より日本人は自然界の掟として、生物ピラミッドの上位者には畏敬の念をもって接していました。例えば、アイヌは、森の頂点にあたる羆を、神=カムイとして崇め、それを捕獲した後、ミヤンゲ(土産の語源とも言われます)=神からの授かりものとして感謝の念を持って、その命を戴いていたと聞きます。しかし、近年、開発により住環境を奪われた羆が餌を求めて街中まで出没するニュースを度々耳にします。また、マタギによって神の使者と崇められたツキノワグマはグルメブームによる乱獲により絶滅危惧種に指定される事態に陥っています。そして海に目を向けると、これまで身近な食材であったはずのクロマグロや鰻まで絶滅危惧種指定として度々ニュースで取り上げられているのは周知の事実です。水産資源の枯渇が生態系に及ぼす影響、そして、地球温暖化による深海への酸素供給量の減少は、我が国だけでなく世界中でも大きな問題として取り上げられています。世界の多くの国で導入されている水産資源管理制度は「政府による資源管理と市民による資源利用」という二元的制度ですが、日本では大宝律令以来1300年間にわたり「資源利用者による資源の保護・培養」という理念が貫かれており、コストを抑えつつ、海や川、湖を浄化させるシステムが成り立っていました。しかし、近年この理念は崩壊し、特定魚種の乱獲がコモンズの悲劇を招いている現状があります。

国立民族学博物館名誉教授の石毛直道先生の著書によると、ユーラシア大陸の伝統的食事文化は、西側の麦類と牧畜を伴う文化と東側の米類と非牧畜の文化の東西の二類型に分けることが出来、人が生きて行く上で必要なタンパク質やエネルギー源を西側では麦類から作ったパンや油脂、肉と乳製品等から、東側では米や大豆、魚から摂取して来た歴史があるようです。なお、西洋と東洋の最も大きな違いの一つに「自然観」が挙げられますが、この食文化の違いが、西洋=畑作牧畜=自然支配型の動物文明、東洋=稲作漁撈=自然共生型の植物文明となり思想に大きな影響を及ぼしているという非常に興味深い考察もあります。東洋の中でも我々日本人は、その思想=自然に対する慈愛を生活の中で最も具現化して来た民族と言われています。

日本には四季があり、自然には色、音、香りがあり、日本人は、それを敏感に感じ取り、色、形、模様、文字で表現し、独自の文化を構築して来ました。このような背景が、詫び、さび、散りゆく桜や祇園精舎、兵どもが夢の跡に見られる「もののあはれ」の概念を生んだのでしょう。風鈴や鹿威しは、聴覚で涼を感じる世界でも珍しい文化。平安時代の女性貴族は、季節の移り変わりを十二単のかさね色目(色)で表現し、教養の高さや美のセンスを競い合いました。手紙の書き出しには季節の言葉、世界で一番短い文章芸術である俳句には必ず季語を入れ、また、日本人の多くの苗字に川、山、秋、水等、自然や季節を表す文字が使われているのも日本人特有の自然観です。古来より八百万の神を崇め、万物に一種の人格を認めて来た日本のアニミズム信仰は、鶴の恩返しや傘地蔵、浦島太郎等の昔話だけでなく、現代アニメにも見られ、ジブリ映画はその典型と言えるでしょう。

日本の伝統芸能である茶道、華道、香道等は全て古代中国で生まれた陰陽五行思想の影響を受けています。これらにはそれぞれ形があり、形を極めることで道に繋がるのです。日本文化の総合芸術である日本料理にもこの概念が根底にあり、料理人は五法・五味・五色・五適・五覚を礎とし、食材を通して四季、自然への感謝の念、もてなしの心を食べ手に表現するのです。しかし近年、日本料理において季節を重んじる概念を軽視した国内外の高級食材の乱用が目に付きます。確かに、この広い世界は美味なる食材で溢れ返っており、モンサンミッシェル産ムール貝、サルディーニャカラブス潟産カラスミ、アルバ産白トリュフ、ハンガリー産フォアグラロア、パルマ産生ハムクラテッロ、カンタブリア産アンチョビ、ボルゴターロ産フレッシュポルチーニ等は、私も非常に好んで口にします。なお、主に聞いた話によると、日本料理においてローストビーフ、スモークサーモン、キャビア、フォアグラ、トリュフを最初に取り入れたのは吉兆とのこと。それは、日本料理を世界に普及させ、また、技術的な可能性を示す新たな試みでしょう。ヘラクレイトスが唱えた「万物は流転する」。確かに、文化は盲目的に維持することは衰退を意味し、また傍流があってこそ本流が引き立ち、互いに切磋琢磨することで、より成熟するという側面があります。ただ、時代に合わせて形を変えることは必要ですが、それらの主張が強過ぎる料理が本流となりつつある現状については疑問を感じざるを得ません。

旬の食材の色、味、香りの変化を大局的に捉えてみて下さい。春は苦みや香り、夏は酸味、秋は甘味、冬は厚み。味は淡麗から豊潤濃厚へ。色合いや食感についても四季を通じて一つの大きな流れがあります。旬というものは、その食材の栄養価が最も高くなる時期であり、丁度、その時期に不足する栄養素を摂取することを、栄養学が発達する何百年も前から、日本人は生活の知恵として身に付けていたのです。近年、季節を問わず、脂や熟成感、旨味が強いもの、柔らかいものが持て囃される傾向がありますが、季節毎の食材の味わいにはそれぞれの良さがあります。また、更に四季を二十四節気、七十二候に分け、走り、盛り、名残りとして一期一会の食材の味を楽しんだのです。

時代は平成の世となり、インターネットの普及は食の世界全体にも大きな変革をもたらしました。世界各国の食材や調理法等の情報の共有化だけでなく、料理人同士の交流も年々益々盛んとなり、実質的に料理の国境の壁はなくなりつつあります。現在、我々日本人の家庭の食卓はキムチに焼き肉、パスタにカレーにハンバーグ…と、謂わば、日本流に解釈された世界の料理で彩られています。これは、日本人特有の異文化を変容させる柔軟性とも受け取れ、ある意味微笑ましくも感じますが、同時に留意すべきことでもあると考えます。要は「日本の食」という定義自体が曖昧になって来ているのです。和食が世界無形文化に登録されましたが、私見で関心を抱いているのは海外の方であり、肝心な我々日本人は関心を示すどころか、海外の調理法、食材の方ばかりに強い関心を抱いている感すらあります。食における厳格な倫理観等と堅苦しいことは申しませんが、我々日本文化の礎となっているものは四季を愛でる自然観であり、また、食においては、旬の食材を口にすることで自然の恵みに感謝し、命を慈しむ心です。これまで先人達が築き上げて来た我が国の食文化を深く理解し、将来の日本の食について考えることは、今の我々に課せらた責務かもしれません。市場経済を導くのは神の見えざる手ですが、食の方向性は我々の意識と胃袋により導くことが出来るのです。

私は今回の食事会で、主の石田さんが食事の最後に仰られた「日本人に生まれて良かったと思って戴きたい」との言葉が深く印象に残りました。主は神奈川県下の有名進学校から吉兆嵐山に志願し、若くして副料理長となり、また茶道や華道においても師範の資格を保有する極めて有能な方。日本文化を理解する上で、志の高い、優れた料理人の日本料理を五感で味わい、興味を持つことは大切かつ非常に有意義なことです。なかなか予約が取れない店のようですが、もしその機会に恵まれる幸運が訪れましたら、何よりも優先して足を運ばれることを強くお勧めしたい一軒です。

2019/11/04 更新

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