3回
2025/09 訪問
九月の銀座とり澤にて、串と詩と、月がわりの恋文
ごきげんよう、諸君。
再び私は、あの「銀座とり澤」の暖簾をくぐった。
そう、八月に一度出逢ったあの味覚の楽園へ――今回は“九月の章”を読むために。
「コースは月替わりです」とは前回、凛とした笑顔の葛城大将が言った言葉。
ならば、味覚の文士たるもの、その“月の移ろい”を舌で確かめねばなるまい。
料理は季節を写す万華鏡。
九月、秋の始まりの銀座にて、とり澤はまた新たな物語を紡いでいた。
物語の幕開けは、【雲丹と山芋のそうめん】。
涼しげな一皿に、霧多布の雲丹が再び登場。これはもう、わたしの胃袋の“推し”と呼んでもよかろう。滑るような山芋そうめんに、出汁の余韻がしっかり絡み、まるで能の静かな一節のよう。
【銀杏】が続く。小粒ながら、実に堂々とした香ばしさ。口に入れた瞬間、私は思わず「どっこいしょ」と言ってしまった。秋の風物詩が、炭火の力で小さな巨人と化していた。
そして串が始まる――【もも】、そして【ナス】。ナスは水気を保ったまま、焦げ目だけをまとい、まるで浴衣美人のよう。派手すぎず、しかし色気がある。うむ、ナスに惚れたのは初めてかもしれぬ。
【新イクラの飯蒸し】は、もう反則だ。
ぷちっと弾けて、ジュワッと旨みが来るその一粒一粒が、まるでお腹の中で秋祭りを始めたかのようだ。
【冬瓜のお椀】は、やさしい。
実にやさしい。出汁が抱きしめてくる。私は冬瓜に「ありがとう」と言いかけた。危ないところだった。
お次は異色の刺客――【手羽先のトマトのすり流し】。
これは焼き鳥界の“赤い彗星”だ。手羽先の香ばしさと、トマトの酸味の共演。ガンダムもびっくりの三倍速で胃に収まった。
そして、出ました【はつもと】。
これぞ「とり澤」の顔面センター。
ぶりんぶりんの食感に、香ばしさがまとわりつき、火入れの妙技が光る。ああ、毎月会いたい。
【毛蟹のみそあえ】は、もう、反則×2。
これはもう“料理界の文豪”だ。蟹味噌の深みに、心がズブズブと沈む。わたしは思わず一句詠んだ。
蟹の味 口に広がる 文学だ
さらに【リンパ】。これもまた“通”な一串。脂のコク、噛んだときのじゅわ感、舌がトランポリンのように跳ねて喜ぶ。
【さんまの肝醤油】で、秋は最高潮に達する。
肝のコクに醤油の切れ味。これはもう“夜の月見団子ではなく、月見さんま”。誰か祝杯を持ってこい!
ラストスパートは、【品種改良されていない頂き米のコシヒカリ】。
まるで“米の原風景”に出会ったような、懐かしさと神聖さ。粒立ち、甘み、余韻――すべてが完璧。
そして【いちじくとマスカルポーネ】で締め。
とろりと甘く、口の中で秋が静かに幕を閉じる。
これぞ“デザートという名の余韻”。
⸻
諸君。わたしはこう断言する。
「一口の美食に、百の詩情が宿る。」
「銀座とり澤」はただの焼き鳥店ではない。
ここは、火と出汁と詩情が共演する舞台なのだ。
月替わりコースを通して、毎月違う小説を読んでいるような感覚になる。
そして、その結末にはいつも――“また来よう”という一行が添えられている。
さあ、諸君。
わが書斎で共に美食の物語を紡ごうではないか?
2025/09/10 更新
2025/08 訪問
焼き鳥は語る、和食は包む―銀座とり澤で一皿の叙情詩を
ごきげんよう、諸君。
本日、わたくし味覚 文士が筆を取ったのは、銀座の夜に新たなる灯をともした名店――その名も「銀座とり澤」。
中目黒、六本木に続く、三羽目の“味覚の鶏(けい)”が、ついに銀座の空を舞いはじめた。場所は銀座五丁目、華やぎと静けさが共存する一角。開けた扉の向こうには、炭火の香りと凛とした木の香が満ち、まるで和の劇場に足を踏み入れたようである。
さて、この店の真骨頂は、ただの焼き鳥屋にあらず。
そう、焼き鳥と和食の“禁断のマリアージュ”。鶏と和、炎と静謐。まるで歌舞伎と能が同じ舞台で舞い踊るような、粋な融合なのだ。
まず、【生雲丹と長芋素麺】の前菜が、幕を開ける。霧多布の雲丹が主役を張るこの一品、出汁がそっと舞台の袖から支える。口に含むと…うむ、これは小さな能舞台。ああ、夏だ。
続いて現れるは【とうもろこしの手毬揚げ】。可憐な球体に、私は一瞬「ピンポン玉か?」と錯覚し、隣の客にサーブしかけたのはここだけの話。食感は“ユルッ”からの“フワッ”、そして“プチプチ”。まるで夏祭りの夜空に打ち上がる食感の三連花火。
焼き鳥陣の筆頭、【もも】は川俣軍鶏と広島地鶏の競演。皮と脂が“チャリチャリ”と唄い出す。これはもはや、口内で行われるB級グルメのフェスティバル。いや、A級DEATH。
【鰹たたき】は焼き台で火を浴び、まるで演者が裏で準備を済ませたような気品を放つ。旨みの直球勝負、その潔さに感涙。
【はつもと】は「ブリンブリン」と擬音で語るべし。もし人生に“噛みごたえ部門”があるなら金賞を取っていたことであろう。
そして【毛蟹しんじょ】に至っては、もう異次元。蟹味噌が中に忍んでおり、これは“味の忍者屋敷”。不意打ちの旨みに私は思わず「ござる…」とつぶやいた。
【ご飯のお供】はまさに“悪魔的フルコース”。漬物、いくら、卵黄、しらす。魚沼産コシヒカリにこんなに付き添いがいたら、もはやご飯が主人公か脇役かわからぬ。私は2杯、いや3杯食べて記憶が遠のいた。
【デザートの桃コンポート】は、桃という名の夏の貴婦人が最後に優雅な微笑みを残して去っていった。軽やかで、でも確かに甘い、上品な余韻。
諸君、私は断言しよう。
「料理はシェフと食材のラブロマンス。」
「銀座とり澤」の皿には、その情熱が見事に結晶していた。焼き鳥はただの串刺し肉にあらず。そこには火と手、技と魂が宿っていた。和の一品料理たちは、母性すら感じる包容力で、焼き鳥の荒々しさをやさしく抱きしめていたのだ。
銀座の夜風に吹かれながら、私は心に決めた。
「胃袋が満たされると、ペンも踊る。」
この夜の踊り、皆にもぜひ見届けてほしい。
さあ、諸君。
わが書斎で共に美食の物語を紡ごうではないか?
2025/08/04 更新
ごきげんよう、諸君。
冬の風が骨まで染みるこの夜、私は銀座の焼鳥懐石なるジャンルの秘境に足を踏み入れた。その名も——いや、銀座とり澤。物語は甘美に香る。だが、そこで繰り広げられた宴の数々は、私の胃袋と心を同時にハイジャックしたのである。
まずは松葉蟹のポン酢ジュレで幕が上がる。ガラスの器に漂う蟹たちの舞は、冷たい月光を思わせる。そのひんやりとした酸味が、冬の乾いた喉を清め、詩人の魂を準備させる。
続いて現れしはすっぽん出汁のとりワンタン。もうこれ、飲むというより「拝む」だ。すっぽんの滋味深きスープがワンタンの衣をやさしく包み、「お前、今日ここに来てよかったな」と語りかけてくる。なんなら泣いた。
そして、主役登場——焼鳥の三傑。
ハツモト、手羽ネギ、モモの三羽ガラス。炭の香りを纏いながら、表面はパリッと、内側はしっとりとした肉質。特にハツモトの食感たるや、まるで鼓動を感じるかのような生命のリズム。焼鳥よ、ただの串刺し肉と侮るなかれ、それはシェフと炭火の即興ジャズなのだ。
ミートボールとトマトの擦り流し?それは焼き鳥界のイタリア遠征である。甘酸っぱいトマトに絡むつくね、まるでナポリで修行した大将の帰国子女的な一皿。
その後、ジャンボなめことひらたけが登場。名前に“ジャンボ”とついているのに、妙に上品なのが逆に腹立たしい。森の哲学者たちが語りかけてくるような深い味わい、そこに“さざねながらの塩”。え、さざねながらって何?と思った諸君、私もわからん。だがその塩がまろやかで、茸たちの風味を引き立てるのだ。
千葉・小原の鯛の刺身は、見た目からして王族。ガラスの皿の上に舞い降りた白い妖精。塩とスダチとわさび、それぞれの相棒で違う表情を見せるあたり、なかなかの役者ぞろい。
そして、圧巻だったのがこの皿——鴨すき焼きとせり。鮮やかなブルーの皿の上に、ピンクに染まる鴨肉、黄身の太陽、せりの緑。まるで美術館の一角に飾られた「冬の狩猟詩」。あまりに美しすぎて、3秒ほど食べるのを忘れた。
〆は、魚沼産こしひかり 特別栽培米と豊かなおかずセット。海苔で巻いてよし、卵で絡めてよし、ねぎとろを乗せてよし。まさに「胃袋は心の図書館、料理はその蔵書だ。」——ページをめくるごとに美味が宿る。
最後の甘味、とちあいか(苺)がまた、冬の口福を締めくくる名フィナーレ。甘み、酸味、香りの三拍子で、まるで春の予告編である。
諸君、これは焼鳥屋ではない。味覚の冒険者たちのオーケストラだ。目と舌と心が踊る、まさに「料理は無言の詩、食べることで完成する」。
さあ、諸君。
わが書斎で共に美食の物語を紡ごうではないか?コメント欄で、君の味覚の詩も聞かせてくれたまえ!