78回
2026/01 訪問
わがままは定番になれるかな?
沁ゆうきでは、これまでにもいくつかわがままを口にしてきた。
もっとも、自分ではそれほど無茶を言っているつもりはない。
ほんの少し、好みを伝えているだけ――その程度の感覚でいる。
今回のわがままは、酒の話だった。
「この一本を、置いてもらえませんか」。
お願いしたのは、
No.3 緑茶の香気抽出に関する研究。
名古屋のスペインバル「ブルボ」で、幾度となくグラスを重ねてきたジンである。
このジンを、和食と合わせてみたかった。
ソーダで割ると、ほのかな甘みと緑茶の香りが立ち上がる。
後半に出てくる、少し味の濃い料理と合わせると、
油や旨みを受け止めながら、きれいに流してくれる。
拍子抜けするほど、違和感がない。
料理に寄り添い、出しゃばらない。
それでいて、輪郭だけはきちんと残す。
その距離感が、この店の空気にもよく似合っていた。
わがままついでに、もう一つ。
こんなふうに自然に溶け込むのなら、
いつかこれが、沁ゆうきの定番になっても不思議ではない。
そんなことを思いながら、グラスを静かに傾けた。
2026/02/03 更新
2026/01 訪問
看板のない鮨屋
沁ゆうきは、ときどき別の顔を見せる。
ある夜は串揚げ屋のようであり、またある夜は串焼き屋、あるいは鍋物屋でもある。
冗談半分に、いつか本当に鮨屋になってくれないものか、と口にしたこともあった。
その願いは今のところ、笑みとともに受け流されたままだ。
それでも、この店には確かに「鮨の時間」が流れている。
冷たい先付として、季節の魚が静かに供される夜があり、
〆には、ねぎとろ巻、トロたく巻、鉄火巻――いわゆる“まぐろ三兄弟”や、納豆巻が並ぶ。
看板こそ掲げていないが、鮨は唐突ではなく、ごく自然に差し込まれてくる。
なかでも心を引かれるのが、鯵の塩レモンだ。
締めすぎることなく、身はふっくらとしたまま。
塩の輪郭にレモンの酸がすっと重なり、
そこへ大葉の青みが一瞬、香りを添える。
後味は驚くほど軽く、
薬味が主張するのではなく、魚そのものの輪郭を整える役に徹している。
だからこそ、気づけばもう一つと箸が伸びる。
いつか、この鯵の塩レモンを〆に二つ三つ並べて味わってみたい。
そんな想像をしてしまう時点で、
沁ゆうきはすでに、半分は鮨屋なのかもしれない。
2026/01/30 更新
2026/01 訪問
先に戻ってきた名前
タプローズという名を耳にすると、味よりも先に浮かぶのは、あの頃のココリコのアイスティーだ。
高い位置から細く注がれ、氷に当たる音さえ計算されたような一杯。
紅茶の記憶と結びついたその名前に、
まさかウイスキーとして、こんな場所で向き合うことになるとは思っていなかった。
グラスの中のタプローズは、穏やかな琥珀色をしている。
ハンドフィルらしい素朴な佇まいで、ボトリングは2002年だという。
よくもまあ、こんなボトルが静かに残っていたものだと、
時間の積み重なりに少しだけ感心する。
香りは前に出すぎず、角はすでに取れている。
口に含むと、長い年月を経た丸みが、やさしく広がった。
まずはストレートで、ほんの少し。
肩肘を張らずに向き合える、古いウイスキーの良さがある。
その後、ハイボールにすると、軽やかさが前に出て、
食事の流れにも自然に溶け込んだ。
どこかで、かつてのアイスティーの気配が重なる気もする。
思いがけない再会というものは、たいてい静かだ。
けれどその静けさの奥で、名前が連れてきた懐かしさだけは、確かに満ちていた。
2026/01/30 更新
2026/01 訪問
名を問わない艶
懐かしい料理が、続けて運ばれてきた夜だった。
ひとつは、じゃがいものクリームコロッケ。
もうひとつは、白甘鯛の椀物。
どちらも何度か出会ってきたはずの品だが、
久しぶりに向き合うと、記憶の中の姿とは少し違って見える。
揚げたてのコロッケは、衣が驚くほど軽い。
箸を入れた瞬間、中からやさしい熱がほどけ出す。
じゃがいもの甘みは主張しすぎず、あくまで控えめ。
揚げ物にありがちな重さは残らず、
思い出補正ではなく、いまの感覚にきちんと寄り添ってくる。
椀物は金目。
澄んだ餡が身を包み、艶を帯びて光を受け、静かに揺れている。
これは鼈甲餡なのか、それとも琥珀餡なのか。
浅い知識では、色目で呼び名が変わる――
その程度の理解しか持ち合わせていない。
けれど名前よりも、出汁の張りと、とろみの加減が雄弁だった。
金目の旨みを覆い隠さず、余韻だけを残して、すっと引いていく。
琥珀か、鼈甲か。
呼び名に迷う、その曖昧さも含めて、料理の楽しみなのだろう。
正解を決めず、ただその艶を受け取ればいい。
そんな粋を、久しぶりに思い出した夜だった。
2026/01/29 更新
2026/01 訪問
椀から始まる年
ふと立ち止まって考えてみると、ここ数年、家で雑煮を口にしていないことに気づく。
正月に向かい合う椀は、いつも沁ゆうきのそれだったように思う。
気づけば我が家の味ではなく、この店の味で一年が立ち上がっている。
そんな習慣が、いつの間にか静かに定着していた。
去年は、すましと白みそ、二つの雑煮をいただいた。
少し改まった席で味わったすましの、凛と張りつめた輪郭。
そして店で向き合った白みその、ほどけるような甘み。
二つの椀の記憶を行き来しながら、
正月とは本来、こうして時間を噛みしめるものだったかと、腑に落ちる。
そして今年は、白みそ。
蓋を取った瞬間に立ちのぼる、角のない香り。
甘さは控えめで、奥にはしっかりと出汁の芯がある。
餅は重たさを残さず、椀の中で無理のない居場所を得ていた。
華やかさはないが、身体の深いところへ、すっと収まっていく。
年のはじめに何を食べるかで、その年が決まるわけではない。
それでもこの一椀を前にすると、
ああ、今年も動き出したな、と自然に思える。
年のはじめのためしとて。
そんな言葉が、これほど静かに似合う雑煮も、そう多くはない。
2026/01/14 更新
2026/01 訪問
通常利用外口コミ
この口コミは試食会・プレオープン・レセプション利用など、通常とは異なるサービス利用による口コミです。
始まりの箱
常連のために用意された、沁ゆうきのおせち。
そう呼ばれてはいるが、重々しさはない。
むしろ佇まいは行楽弁当に近く、蓋を開けた瞬間、正月の区切りというよりも、何かが始まる気配が立ちのぼった。
箱の中には料理が隙間なく詰められている。
けれど、どれひとつとして声を張り上げない。
焼き物、煮物、酢の物が、それぞれの位置を心得た顔で並び、全体として静かな秩序を保っている。
その中で、自然と目が向くのは、やはりだし巻きだ。
かつてこの店のだし巻きに触発され、毎日のように卵を巻いていた時期がある。
それなりの形になったと思えた頃、不意に聞いた言葉があった。
「同じ出来を、二十本続けて巻けて、ようやくプロだよ」。
目の前のお弁当には、その“二十本分”の時間が折り重なるように詰まっている。
一本一本は控えめだが、全体に乱れがない。
その揃い方こそが、何よりの贅沢なのだと気づかされる。
おせちというより、お弁当。
だがこの箱は、新しい年のはじまりを、静かに受け止めるための箱でもあった。
箸を進めながら、少し遅れて、正月が始まる。
そんな一箱だった。
2026/01/06 更新
2025/12 訪問
冬の入口にて
冬の始まりとともに、沁ゆうきに「熊」が姿を見せる。
名を聞くだけで野趣を思い浮かべてしまうが、
目の前に置かれた鍋は、その想像を静かに裏切った。
月の輪熊の肉は、驚くほど白い。
脂は澄み、獣の荒々しさよりも、張りつめた静けさを宿している。
野生という言葉が、ここでは一歩引いている。
はりはり鍋に仕立てられた熊は、水菜とともにさっと火をくぐる。
箸を入れると、ほろりとほどけ、旨みがじわりと広がる。
癖はなく、むしろ端正だ。
出汁が肉の輪郭を際立たせ、
熊という素材が持つ力を、必要以上に主張させない。
野生を料理に落とし込むとは、こういうことなのかと、あらためて思う。
熊は、冬の始まりを告げる料理である。
最終日には都合がつかず、この夜が、今年最後の沁ゆうきとなった。
名残を噛みしめるように、鍋の湯気を眺める。
月の輪熊のはりはり鍋。
冬の入口であり、ひとつの区切りでもある一品だった。
2026/01/06 更新
2025/12 訪問
いくつめかの、好みの話
この前は「白子づいてないか?」だった。
今夜はどうやら、ジンの番らしい。
もっとも、白子のときと違って、今回は完全に私の側の話である。
暑い季節、バーでの一杯目は決まってジンリッキー。
喉を一直線に抜けていく、あの乾いた清涼感が好きで、長いこと変わらなかった。
だが最近は、食中酒として、あるいは食後の締めとしても、
気づけばジンを選んでいることが増えている。
この夜は、ハイボールの代わりにジンソーダ。
グラスに注がれたのは、タスマニア産のクラシックなドライジンだった。
香りは控えめだが、輪郭はくっきりとしている。
ボタニカルが前に出すぎず、料理の余韻にそっと寄り添う。
ソーダで割ると、冷たさの奥にわずかな厚みが残り、
次の一口を急がせない。
ウイスキーほど身構えなくていい。
日本酒ほど神経を研ぎ澄まさなくてもいい。
その中間にある距離感が、今の自分には心地よかった。
ジン“が”好き、というより、
ああ、ジン“も”好きだったのだと、静かに気づいた夜である。
2025/12/22 更新
2025/12 訪問
白子づいてないか?
時折、この店では、同じ食材が続けて姿を見せることがある。
どうやら大将の関心が、今は「白子」に向いているらしい。
先日の酢の物に続き、今夜は「鮨」と「コロッケ」。
皿が運ばれてくるたび、心の中で小さくつぶやく。
白子づいてないか、と。
まずは鮨。
海苔に包まれた白子は、とろりとほどけ、添えられた薬味が輪郭を与える。
酢飯の酸が甘みをきりっと引き締め、
あとには静かな余韻だけが残った。
主張しすぎず、それでいて確かに記憶に残る一貫である。
続いて、軟白ネギとホワイトソースを合わせた白子のコロッケ。
衣を割ると、中から白子が現れ、熱を受けて少しだけ表情を変えている。
ネギの甘みとソースのコクが重なり、
白子の旨みを別の方向から引き出していた。
揚げる、という選択がここではよく似合う。
ひとつの食材に、酢、鮨、揚げ。
手を替え、品を替え、可能性を探り続ける。
こうして引き出しを増やしてきたのだろう。
白子づいているのは、気まぐれではなく、探究の途中にすぎない。
2025/12/15 更新
2025/12 訪問
それぞれの行き先
河豚にしろ、鱈にしろ、白子の季節がめぐってきた。
同じ“白子”の名を持ちながら、その佇まいも、似合う料理もまるで異なる。
河豚の白子は、熱をくぐらせてこそ真価を見せる。
夏前にいただいた「昆布焼き」や「天ぷら」の余韻はいまも鮮やかだ。
張りつめた膜の下に潜む濃密さは、箸を入れた途端に溶けだし、
火を通すことでようやく、その力を惜しげもなく晒す。
一方、鱈の白子はそこまでの迫力を求めない。
むしろ、その“軽やかさ”が酢の仕事をきれいに受け止める。
最近の沁ゆうきでは、冷たい先付として
「鱈白子の酢の物」がそっと供されるようになった。
白子のとろみを酢のきりっとした酸味が引き締め、
昆布と柑橘の香りが静かに立ちのぼる。
強すぎもせず、弱すぎもせず、
冬の入口にふさわしい、控えめで端正な一皿だった。
白子は、調理法ひとつでその表情をがらりと変える。
だからこそ、季節の切れ目に出会う一皿が、ひそやかに楽しみなのだ。
2025/12/05 更新
2025/11 訪問
端境期の一椀
沁ゆうきの楽しみのひとつに、炊き込みご飯がある。
季節の移ろいをそのまま器に映し、ひと椀に“いま”を落とし込んでくれる存在だ。
四方竹が去り、食材の端境期へと移るこの頃。
冬が本気を出す前の、ほんのわずかな隙間――その静けさを埋めるように、
季節に縛られない炊き込みご飯がそっと姿を見せる。
代表格は鯛めし。
予約をしても、海の機嫌が悪ければ出会えない。
一期一会をそのまま煮含めたような、あの名物である。
そしてもうひとつ、昔から密やかに愛されてきた
「鶏とごぼうの炊き込みご飯」。
今夜は、その穏やかな一椀が〆を飾った。
鶏の旨みが米にゆるやかに染み、ごぼうの香りがふわりと立つ。
派手ではない。けれど、箸を運ぶたびに心のどこかがほどけていく。
端境期の夜には、こうした“季節に寄らない味”がよく似合う。
季節の一椀を追うのも楽しい。
だが、その橋渡しを静かに受け止める一椀こそ、沁ゆうきらしさでもある。
今夜はただ、その優しい炊き込みご飯をゆっくりと味わった。
2025/12/04 更新
2025/11 訪問
静かに始まる冬
沁ゆうきは、いまやコースのみの店だ。
もっとも、来店頻度によってその景色は変わる。
だから私は、二十年近く通い続けているのだろう。
「いつものコース」であって、「同じコース」ではない。
冬メニューが始まった。
ここ数年で定番になりつつある「熊」。
昔からの主役である「河豚」。
季節が深まるほどに、皿の表情も静かに変わっていく。
そんな中で今日選んだのは、正式にメニューへ載った
「河内鴨入りメンチカツ」。
試作の頃に何度か口にしているが、“正式採用”としては初めてだ。
メンチに箸を入れると、ふわりと鴨の香りが立つ。
脂はくどさがなく、旨みがゆっくりと滲む。
薄い衣は控えめで、かえって鴨の味をくっきりと際立たせる。
デミグラスソースと絡むと、コクがさらに深まり、
試作のときより輪郭がひとつ上がったことがわかった。
こうして冬が本格的に動き出す。
沁ゆうきの季節は、今年もまた、静かに始まった。
2025/11/27 更新
2025/11 訪問
冬への小さな合図
季節が進む。
沁ゆうきの献立にも、冬がそっと顔をのぞかせはじめた。
今、店に並ぶのは「河豚」「海老芋」「せこガニ」。
それぞれが、冬の入口を知らせる小さな合図のようだった。
河豚は薄造り。
噛むほどに静かな甘みがひらき、淡いのに、どこか芯のある余韻を残す。
色よりも辛味の強い紅葉おろしが、その淡さをきりりと締めてくれた。
海老芋は唐揚げで。
外は軽く香ばしく、中はほろりとほどける粘り。
芋というより、上品な甘さをまとった“柔らかな衣”に出会ったような食感だった。
せこガニは茹でで。
小ぶりな殻の内側に、ぎゅっと詰まった内子と外子。
ひと口で、冬の海の深い香りがふわりと広がる。
寒さが深まれば、熊の出番が訪れるのだろう。
まだ少し先の、静かな楽しみだ。
河豚、海老芋、せこガニ。
ひとつずつ味わうたびに、季節がまた一歩、冬へと進んでいくのがわかった。
2025/11/14 更新
2025/11 訪問
秋を告げる竹
沁ゆうきの楽しみのひとつに、季節の炊き込みご飯がある。
この季節は、四方竹。
ここでしか食べたことがない。
高知県で秋を告げる竹で、断面が四角いことからその名がついたという。
柔らかすぎず、かといって硬くもない。
噛むたびにほのかな甘みがにじみ、出汁を含んだ米とともに、秋の香りがゆっくりと広がる。
春には豆ごはんや筍ごはん。
夏にはとうもろこし。
そして予約しても入荷がなければ出会えない鯛めし。
季節ごとに、ほんのひとときだけ現れる一椀がある。
季節を感じながら食べるというのは、
単に旬を味わうことではない。
今という時間を、確かに生きているということだ。
今夜の四方竹もまた、そんな“今”の味がした。
2025/11/12 更新
2025/10 訪問
野菜は皿だ
とあるCMで、古田新太さんが叫んでいた。
「野菜は皿か!」
肉ばかり食べて野菜を残す人への嘆き――
その言葉を、沁ゆうきの一皿で思い出した。
この日のメインは、ハンバーグ。
かつてはメンチカツとして姿を見せたが、今回は原点への帰還。
写真を見たとき、輪切りのカボチャにミンチを詰めて焼いたものかと思った。
けれど違った。
カボチャは“皿”だったのだ。
焼き上がったハンバーグの肉汁を、カボチャがすべて受け止めている。
甘みと旨みが重なり、フォークを入れるたび、香りがふっと立ちのぼる。
この皿に限っては、野菜は脇役ではない。
むしろ、主役を支えるもうひとつの舞台。
あのCMでは、「野菜は皿じゃない」と嘆いていたけれど――
この夜ばかりは、そう思った。
やはり、野菜は皿だ。
2025/10/30 更新
2025/10 訪問
季節を譲る夜
沁ゆうきの楽しみのひとつは、選べるメインだ。
いつも悩ませてくれる。
寒くなると、メニューも少しずつ衣替えを始める。
「熊」と「河豚」が顔を出すころ、誰かがそっと姿を消す。
今年、去っていくのは「鴨すき」だった。
それを聞いた夜、迷わず名残の一皿を選んだ。
鍋の中では、脂ののった鴨がゆっくりと色を変えていく。
長ねぎの甘みと出汁の香りが、ふわりと湯気の中で重なる。
箸を入れれば、肉はしっとりと柔らかく、旨みがほどけて広がる。
そこに日本酒をひと口。
冷えた夜の空気までもが、静かに溶けていった。
「熊」や「河豚」に季節を譲りながらも、鴨すきは去り際まで美しい。
春になれば、また会えるだろうか。
湯気の向こうで、そんな思いだけが静かに残った。
2025/10/25 更新
2025/10 訪問
ウイスキー“も”、お好きでしょ
お酒は好きだ。
苦手なものが、無いわけではない。
けれど、気づけばいつも何かしらの盃を手にしている。
今でこそ日本酒が多いが、私のお酒人生はバーボンに始まり、やがてスコッチへと進んだ。
氷が鳴る音。
琥珀の香り。
その頃の夜には、まだ若さの苦みが混ざっていた気がする。
この夜の沁ゆうきでは、隣の客と会話が弾み、日本酒が思いのほか進んだ。
だが、揚げ物が出てきたところで、ふと切り替える。
――角ハイをください。
グラスの中で弾ける泡を眺めながら、不意に流れる旋律。
石川さゆりさんの「ウイスキーが、お好きでしょ」。
思わず小さく笑ってしまう。
そう、日本酒も好きだが、
ウイスキー“も”、お好きです――と答えながら。
2025/10/16 更新
2025/10 訪問
定番という特別
ひとりで訪れることも多いが、大切な人をもてなすときにも、この店を選ぶ。
この夜は、いま抱えているプロジェクトのメンバーを誘った。
こういう日ばかりは、私用の少し変わったコースではなく、この店の定番を並べる。
冷・温の先付に始まり、お造りの盛り合わせ、焼き物、箸休め、そしてメインと〆、デザートへ。
その流れの中で、料理が静かに店の物語を語り出す。
メインと〆はそれぞれが選べる。
「何がお勧めですか」と問われ、私は笑って返した。
――好きなものを選びなさいよ。
全部食べたからこそ言える、「何を食べてもおいしいよ」。
私は今日は「ねぎま鍋」と「トロたく巻」。
湯気の向こうで、それぞれが自分の一皿を楽しみ、穏やかに笑っていた。
誰かを連れてきたくなる店。
私にとってそれは、いつも変わらぬ定番であり――
少しだけ特別な場所なのだ。
2025/10/15 更新
2025/10 訪問
丼の記憶
ふと記憶をたどると、「にのま」にあった一品が甦る。
名を「うにとろいくらのちょっと丼」といった。
その名の通り小ぶりで、うに、まぐろ、いくらが散りばめられた、愛らしいちらし寿司。
一口ごとに贅沢さと可笑しみが同居していて、だからこそ心に残ったのだろう。
そしてこの夜、沁ゆうきで供されたのは、その記憶を呼び覚ますような一椀。
ただし今回は“ちょっと”ではない。
器は中川自然坊の作。
飯茶碗にしては小さく、酒器にしては大きい、あの曖昧さをそのまま抱えた器に、
盛られていたのは──にのまの頃よりも少し大振りに仕立てられた丼だった。
うにの濃厚な甘みが舌を覆い、まぐろの旨みが静かに寄り添う。
いくらの弾ける塩気が全体をきりりと引き締め、口の中で調和と変化が繰り返される。
懐かしさとともにいただくその丼は、過ぎ去った時間を呼び戻し、
新しい「丼の記憶」として、器の中に静かに刻まれていた。
2025/10/03 更新
なめろうは、昔から好きな料理のひとつだ。
鯵の身を叩き、味噌と薬味を合わせるだけの、実に簡単な一品なのに、出来不出来ははっきり出る。
だからこそ、頼む相手と場を選ぶ料理でもある。
沁ゆうきでは、良い鯵が入り、なおかつ大将の手が空いているときに限って、そっとお願いしていた。
言ってしまえば、私のわがままから生まれた、ほとんど専用メニューだった。
粗さを残した叩きに、味噌が前に出すぎない加減。
鯵の甘みが立ち、酒を呼び、酒が進むとまた箸が戻る。
派手さはないが、肴としては申し分がない。
それが最近では、お造りの盛り合わせの一角として、当たり前の顔で並んでいる。
特別扱いされなくなった寂しさがないわけではないが、それ以上に、嬉しさのほうが勝つ。
ああ、これはもう、わがままの域を越えて、店の定番になったのだな、と。
考えてみれば、こうして定番になった料理は他にもある。
カツカレー然り、いくつかの「わがまま」は、時間をかけて、店の風景に溶け込んできた。
わがままが定番になるまでには、少しの距離と、少しの時間がいる。
その過程を知っている料理は、やはり、どこか特別だ。