79回
2025/04 訪問
旬を名に刻むもの
子どもの頃は、筍があまり得意ではなかった。土のような香りと、どこか渋みを含んだ味が、幼い舌には少し重たかったのだ。
その印象が変わったのは、新大阪に勤めていた頃。仕事帰りによく立ち寄った和食店で供された筍料理は、やわらかくて澄んだ味わいだった。ていねいな下ごしらえが施されていることが、ひと口で伝わってきた。
いまでは、沁ゆうきの春の献立に筍が登場するのを心待ちにしている。今年は特に「筍ごはん」の注文が多かったと聞く。炊きたての香りが立ちのぼり、淡く瑞々しい食感がごはんと寄り添う。そのやさしい味に、自然と箸が進んだ。
「筍」という漢字は「旬で育つ」と書くが、むしろ「旬しか食べられない」と言い換えたくなるほど、その美味しさは一瞬のきらめきだ。
今年は、ワカ筍煮と筍ごはんで、その旬をしっかり堪能できた。春は、短いからこそ、いい。
2025/05/05 更新
2025/04 訪問
コロッケをどうぞ
空豆の季節になると、沁ゆうきの料理にも春の緑がふいに顔をのぞかせる。以前は焼き空豆が、先付や箸休めとしてさりげなく添えられていた。だが最近は、少し趣向が変わってきたようだ。
この日のコースに現れたのは、“空豆のコロッケ”。その響きだけなら一瞬肩の力が抜けそうだが、話を聞けば、その一皿には予想以上の手間がかかっていた。
まず、空豆を茹でる。次に、そのゆで汁を捨てずに使い、さらに空豆を湯がく。薄皮は一つひとつ丁寧に剥かれ、すりつぶされた中身だけで、衣をまとわせて揚げられる。つまり、素材の100%どころか、茹で汁まで含めれば120%空豆のコロッケ、というわけだ。
衣の中から立ちのぼる春の香り。ふんわりとした甘みとともに、空豆の素朴さがしっかりと伝わってくる。
そう長くは出てこない。けれど、それがいい。あの手間を思えば、空豆の季節が短いのは、むしろ救いかもしれない。
「コロッケをどうぞ」と笑って差し出されたその一皿には、沁ゆうきらしい静かな茶目っ気と、料理人の矜持が詰まっていた。春は、こんなところにも宿っている。
2025/05/01 更新
2025/04 訪問
夜の余白にモルトを添えて
沁ゆうきで飲むのは、たいてい日本酒だ。料理に寄り添い、季節を映し、静かに杯が進む。それがこの店での、ごく自然な過ごし方になっている。時折、最後に焼酎のソーダ割で喉を整える夜もある。それはそれで、悪くない。
けれど、たまに――食後の余韻をもう少しだけ味わっていたい夜がある。そんなとき、自然とグラスに手が伸びるのはスコッチウイスキーだ。カウンター越しに大将やスタッフと他愛ない話を交わしながら、ゆっくりと飲む。モルトの香りは、そんな時間によく似合う。
どうやらアイラ好みの常連がいらっしゃるらしく、棚にはそれらしいボトルが。今夜、選ばれたのはボウモア8年。2000年代の流通品。ラベルを見た瞬間、記憶の奥が少しだけざわめいた。「こんなボトル、あったな」と。
口に含めば、スモーキーな香りが静かに立ち上がり、わずかに潮風を思わせる。強くはない、けれど確かなアイラの輪郭。食事の余韻を損なうことなく、そっと寄り添ってくる。
ただ酒が変わっただけなのに、夜の空気も、心の温度も、少しだけ違って感じられた。たまには――スコッチウイスキーも、いい。
2025/04/24 更新
2025/04 訪問
最後の未踏地 ~納豆との再会~
沁ゆうきの〆は、いつも少し迷う。小さなカレーにご飯セット、さらりと喉を通る麺類、そして定番のマグロ細巻き。どれも食後の余韻を壊さない絶妙な加減で、最後の一品としてよくできている。
そんな中で、ひとつだけ手をつけたことがなかったものがある。納豆巻だ。理由は明快で、ただ単に納豆が苦手だった。香り、粘り、味の輪郭――どれもこれもが敬遠対象だったのだ。
だがこの日、転勤が決まり、しばらくは足が遠のくかもしれないという現実が、ほんの少しだけ背中を押した。苦手なものに手を伸ばすなら、今がその時だろうと。
供された納豆巻には、谷町納豆が使われていた。香りは抑えめ、シャリと海苔との相性もよく、思っていた以上にすんなりと口に入った。苦手だったはずの一品に、思わず「これはこれであり」と思う自分がいた。
これで沁ゆうきの〆メニューは、一通り制覇したことになる。通う間隔が少し空いたとしても、この店にはまた戻ってくる。その時はきっと、納豆巻とも自然に再会している気がする。
2025/04/12 更新
2025/04 訪問
姿なき主客とのご相伴
沁ゆうきには、特定の常連のためだけに現れる“裏メニュー”がある。いわば、その人のための一皿。私にとってのなめろうのように、長く通ううちに、それぞれのこだわりが形になるのだろう。
「豆ごはん」も、そんな一品のひとつ。春の限られた時期にしか供されず、しかもある常連の予約が入った週にだけ、ひっそりと仕込まれる。
私が店を訪れたのは、ちょうどその週だった。しかも、この日は二人連れ。豆ごはんは一人で食べるには少々多すぎるが、ふたりならちょうどよい。頼んだわけではない。けれど、ごく自然に、その一椀が目の前に置かれた。
湯気とともに立ちのぼる青豆の香り。塩は控えめで、むしろ豆と米の味わいが際立つ。ひと口ごとに春が広がるような、そんな味だった。
偶然とは思えない、静かな導きのようなもの。沁ゆうきでは、ときにこんな一皿が、ごく自然に供されることがある。まさに“ちょっと変わった御相伴”だった。
2025/04/11 更新
2025/03 訪問
春を名乗る冬の魚
沁ゆうきのコースは、季節の気配を言葉にせずとも伝えてくる。この日もそうだった。いつものようにおまかせの流れに身を委ねていたところに、ふと供されたのが――鰆の西京焼き。
香ばしく焼かれた皮の下には、脂ののった身がしっとりと隠れていて、西京味噌の甘さとともに口の中にやわらかく広がっていく。冬の終わり、春の気配が混じり始めた頃にふさわしい、穏やかで余韻のある一皿だった。
そのとき、不意に「鰆」の字が頭に浮かんだ。魚偏に春――言われてみれば、随分と詩的な漢字だ。春先、産卵のために沿岸に姿を現すことから「春を告げる魚」とされるが、実際に美味なのは、脂がのる冬の時期。名と旬が少しずれているという、この微妙な距離感が妙に心地よい。
書道をたしなむ身としては、こうした言葉と現実の“ズレ”や“余白”にこそ、漢字の面白さを感じることがある。
この夜の鰆もまた、メニューに名はなくとも、文字以上にその存在をしっかりと語っていた。口に残る味と、心に浮かんだ一文字とが、静かに響き合っていたように思う。
2025/03/28 更新
2025/03 訪問
初めての鍋 ~河豚の余韻~
沁ゆうきに通うようになって、いったいどれほどの時が流れただろう。数えることなどしていないが、来店した回数は100や200ではきかないはずだ。季節が巡るたび、料理が移り変わるたびに、この店の味を静かに噛みしめてきた。
それでも、この日は特別だった。これまで何度も通い続けてきた沁ゆうきで、鍋のコースを頼むのは初めてだったのだ。 何度も目にし、隣の席で供される様子を眺めたことはあった。それでも、自分が味わう機会はなぜか訪れなかった。そして迎えた今シーズン最後の河豚の日、ようやくその席につくことになった。
まずはてっさ。薄く透ける身が、噛むほどに淡く、そして確かに広がる。続く唐揚げは、香ばしさの奥にふぐ特有の弾力を秘め、酒を誘う。てっちりでは、骨のまわりに宿る旨みを惜しむように味わい、最後に雑炊が、すべてをやさしく包み込んだ。出汁の沁み渡るひと口が、まさに季節の終わりを告げていた。
沁ゆうきの河豚は、派手さではなく、確かさで記憶に残る。淡いが、芯のある味。春の足音が聞こえ始めるこの時期に、冬の名残を惜しむ最後のごちそう。
河豚の締め日に、河豚で〆た――そんな余韻に浸りながら、また一つ、この店との記憶が深まっていくのを感じた。
2025/03/21 更新
2025/03 訪問
懐かしき皿の再訪
沁ゆうきでは、新しい料理が次々と生まれ、メニューの流れも自然と変わっていく。定番だったはずの一皿も、気づけば姿を消し、いつの間にか「懐かしい味」へと変わってしまうこともある。そんな中、この日は久しぶりに、かつての名脇役たちがカウンターに並んだ。
ひとつは「まながつおの西京焼き」。西京焼き自体は今も提供されているが、まながつおを使ったものが登場するのは久方ぶりだ。「カツオ」と名がついているが、その実、鰹とはまったくの別物。しっとりとした身に、じんわりとにじむ脂。それを西京味噌の甘みが優しく包み込む。懐かしさとともに、やはりこの魚の西京焼きは格別だと改めて実感する。
もうひとつは「マカロニグラタン」。沁ゆうきでは、これがアワビの殻に入っているが、アワビは入っていないという決まり文句とともに供される。ベシャメルソースのコク、焼き目の香ばしさ、シンプルながらも記憶に残る味わい。かつての定番が再び目の前に現れたことに、どこかほっとする。
移り変わるメニューのなかで、ふと巡り戻る一皿。その夜は、沁ゆうきが変わらず沁ゆうきであることを感じさせる、そんな時間だった。
2025/03/17 更新
2025/03 訪問
巡る季節の名残と兆し
沁ゆうきの料理には、季節の移ろいがそっと映し出される。この日もまた、旬のはじまりと終わりが、静かに一皿ずつ語りかけてきた。
先付には、うすいえんどうの餡をまとった温かい一品が供された。春の兆しを含んだ豆の甘みが、口の中にふわりと広がる。冬の寒さが遠ざかり、柔らかな陽射しが差し込むような味わいだ。ホタルイカは天ぷらに仕立てられ、軽やかな衣の中に閉じ込められたほのかな苦みと凝縮された旨みが、春の訪れを確かに告げている。
一方で、終わりゆく旬もまた、皿の上にその名残をとどめていた。河豚は先付の皮の湯引きとして現れ、コリコリとした食感と淡い旨みが、冬の余韻を静かに感じさせる。そして、選んだメインは河豚の唐揚げ。噛むほどに滲み出る旨み、しっかりとした身の弾力――それは、まもなく終わる冬の味覚が残す最後の余韻のようだった。
季節は巡り、食材は姿を変えながら、その味わいの記憶を静かに残して去っていく。そしてまた、新たな旬が訪れる。その流れの美しさを、沁ゆうきの料理はそっと教えてくれるのだ。
2025/03/10 更新
2025/02 訪問
御相伴のひととき
沁ゆうきには、季節限定・予約限定の鍋がある。私の知る限り、河豚と蟹。いずれもこの店ならではの丁寧な仕立てで、特別な時間を演出する一品だ。
この日、隣の席では河豚鍋のコースが進んでいた。向こうに座るのは、何度かこの店で顔を合わせたことのある方々。深く言葉を交わしたわけではないが、同じ空間を何度も共有していると、不思議と親しみが生まれるものだ。
やがて鍋の終盤、ふと声がかかる。「〆の雑炊、よかったらどうぞ」。ありがたく、御相伴にあずかることにした。レンゲでひと口すくえば、河豚の出汁が染み渡った雑炊の香りがふわりと立つ。口に含めば、淡く澄んだ旨みが広がり、静かに身体の芯まで染み込んでいく。この店の鍋は、ただの料理ではなく、確かな余韻を残すものなのだと実感する。
湯気の向こうに広がる、さりげない縁。次に訪れたときは、自ら鍋を予約してみようか――そんなことを考えながら、静かに盃を傾けた。
2025/03/03 更新
2025/02 訪問
イレギュラーズへのレギュラーメニュー
沁ゆうきに通い続けると、自然と食べる料理の幅が広がっていく。お店の方が工夫を凝らし、訪れるたびに違う味を楽しめるのが、この店の魅力だ。そのため、レギュラーメニューと呼ばれるものを、通った回数ほど食べているわけではない。
だが、誰かと一緒に訪れると、話は変わる。相手の好みや期待に応える形で、自然と定番が並ぶことが多くなる。この日も、沁ゆうきの"王道"が静かに供された。
先付の旨出汁ゼリーは、透き通った旨みが口の中でふわりと広がり、食事の始まりを穏やかに演出する。箸休めには、小蓮根の唐揚げが控えめながら確かな存在感を放つ。そして、サザエの茸焼き。サザエの深い旨みと茸の香りが重なり、仕上げのトリュフオイルが全体を包み込む。この一皿が沁ゆうきの"定番"と呼ばれる理由を、改めて思い知らされる瞬間だ。
イレギュラーな料理に心躍らせるのも楽しいが、こうして定番を味わうのもまた良い。変わらないものの中に、変わる楽しみを見つける。沁ゆうきのレギュラーメニューは、ただの定番ではなく、確かな"答え"を持つ一皿なのだ。
2025/02/24 更新
2025/02 訪問
皿の端に息づく季節 ~春の苦味~
沁ゆうきでは、季節ごとに添えられる野菜が変わる。決して主役を張るわけではない。だが、その存在が料理全体の印象を決定づけることもある。この時期、皿の端にさりげなく添えられるのは「菜の花」。それだけで、一皿に春の息吹が宿る。
オリーブオイルでさっと炒められた菜の花は、噛むごとに広がるほろ苦さが心地よい。焼き魚の脇に添えられたそれを口に含めば、脂ののった身と調和し、後味にきりっとした余韻を残す。苦味があるからこそ、他の旨みが際立つ。その計算されたバランスこそが、この店の真骨頂だ。
この苦味は、ただの味ではない。春の訪れを静かに告げるものだ。野菜の持つわずかなえぐみやクセを楽しむのは、大人の味覚が許すささやかな愉しみ。沁ゆうきでは、その“旬の苦味”を見事に料理に織り込み、季節の移ろいをひそやかに伝えてくれる。
次に訪れたとき、菜の花の代わりに何が添えられるのだろうか。派手ではないが、確かにそこにある変化。巡る季節とともに、新たな苦味との出会いを待ちわびるのも、この店に通う理由のひとつなのだ。
2025/02/21 更新
2025/02 訪問
尽きぬ工夫、満たされた皿
沁ゆうきのヘビーユーザーともなれば、メニューの流れはすでに頭に入っている。だが、それでも飽きることがないのは、この店ならではの工夫ゆえだ。私の嗜好や気分に合わせ、絶妙に料理を組み立てる。
とはいえ、店側も楽ではないだろう。「今日は何を作ろうか」と思案しながら、私を飽きさせぬ献立を考えるのは、きっと一種の挑戦になっているに違いない。そしてこの日、大将は思い切った。どうやら「考えていたものを全部出す」という選択をしたらしい。
結果、箸休めが6品並ぶこととなった。鰻の白焼きが口をほぐし、茹で時間を変えたからし菜のつぼみ菜が二皿続く。ちょこっとお造りが間を取り持ち、牡蠣フライとアジフライが食欲を煽る。仕上げは蛤の雲丹焼き。これだけの料理が次々と運ばれ、思わず笑いが漏れた。
当然ながら、これだけ味わえば満腹だ。〆の余裕は、さすがになかった。しかし、ただ満たされるだけではない。工夫を尽くした献立の妙、緩急のついた味の流れに、心まで満たされる。
メニューに困るのは、店側か、それとも私か。そんなことを考えながら、次はどんな皿が並ぶのかと、また足を運びたくなるのだった。
2025/02/19 更新
2025/02 訪問
寒い日の特別 ~温もりの一杯~
今シーズン一番の冷え込みかどうかはわからない。だが、夜の空気が肌を刺し、指先がかじかむほどの寒さであることは確かだった。こんな日には、最後に温かいもので〆たくなる。沁ゆうきの定番であるカレーも魅力的だが、今の気分ではない。何か、もっと体に染み渡るようなものを――。
「温かい素麺、できますか?」
ふと口にした問いに、大将は間髪を入れず答えた。「できますよ」。その即答に、期待が膨らむ。沁ゆうきのことだ、ただの素麺が出てくるはずはない。
ほどなくして供された椀の中には、「厚揚げ」が主役として鎮座し、脇には「鴨つくね」。ベースはねぎま鍋と同じはずなのに、まったく別の料理に仕上がっている。出汁をたっぷり吸った厚揚げを箸で割ると、じゅわっと広がる旨み。鴨つくねはほろりとほどけ、温かい素麺がするりと喉を通る。寒さに強張っていた体が、ゆっくりと解けていくのがわかる。
沁ゆうきの魅力は、素材の組み合わせと、その使い方の妙だ。同じ食材でも、そこにひと工夫加えるだけで、まったく違う味わいが生まれる。寒い夜だからこそ出会えた、心まで温まる一杯。その余韻に浸りながら、盃をそっと傾けた。
2025/02/07 更新
2025/01 訪問
箸休めに湯気が立つ日
「沁ゆうきで、おでん?」
そう思ったのは、これが初めてではない。記憶をたどれば、確かこれで二度目の登場だろうか。箸休めとしては異色の一品だが、不思議と店の雰囲気に溶け込んでいる。
この日は、箸休めのタイミングでおでんが供された。食べ放題らしいが、誰もが次々とおかわりをするわけではない。私も、じっくりと選ぶ。大根、こんにゃく、平天、そしておすすめのソーセージ。沁ゆうきらしい丁寧な仕事が施された具材が、出汁をたっぷりと含み、口の中で静かにほどけていく。
こうなると、やはり燗酒が欲しくなる。しかし、店の中の人が少ない時に頼むのは、どうにも気が引ける。だから、冷酒を合わせることにした。キリッと冷えた一杯が、おでんの温かさと対比をなし、その味わいを際立たせる。
沁ゆうきのおでんは、まだ馴染みの薄い存在だ。しかし、その一椀には確かな仕事と、店の空気に寄り添う穏やかさがある。レアなメニューに当たった日。その偶然を噛みしめながら、盃をそっと口に運んだ。
2025/01/31 更新
2025/01 訪問
冬の味覚を頬張る時 ~牡蠣の余韻~
牡蠣は、鴨と並んで私の最も好きな食材の一つだ。いや、蟹も鰺も捨てがたい。結局のところ、どれも魅力的で甲乙つけがたいのだが、それでも牡蠣の季節が訪れると、やはり牡蠣を食べずにはいられない。
しかし、数年前のある出来事を境に、生ガキがどうにも苦手になってしまった。かつてはあんなに好んでいたのに、今では目の前に並んでいても手が伸びない。我ながら残念ではあるが、その分、牡蠣フライを存分に楽しむようになった。衣をまとった牡蠣を噛みしめると、サクッとした食感の後に熱々の濃厚な旨みが広がる。その幸福感といったら、言葉にするのも野暮に思えるほどだ。
沁ゆうきの大将は、そんな私の嗜好をよく理解している。この季節になると、何も言わずとも牡蠣フライを出してくれる。その心遣いが心地よく、カウンターに座り、揚げたての香ばしい香りを感じるたびに「ああ、今年もこの季節がきたな」としみじみと思う。タルタルソースをたっぷりつけるもよし、そのまま牡蠣の旨みをじっくり味わうもよし。どちらにせよ、至福の時間であることに変わりはない。
今年も沁ゆうきで、牡蠣の季節が始まった。最初のひとくちを頬張りながら、冬の訪れを静かに実感する。そして、この冬もまた、牡蠣を存分に味わうことになるのだろう。
2025/01/31 更新
2025/01 訪問
盃の向こうに広がる景色 ~日本酒の流儀~
ここでは日本酒を頼むと、基本的には店主のおまかせとなる。何を飲みたいかを尋ねられることはほとんどない。それは決して不親切なわけではなく、むしろ信頼の証だ。この店では、その日の料理、客の表情、そして盃を重ねる速度さえ見極めながら、最適な一杯が自然と目の前に置かれる。
そんな中でも、変わらずそこにある定番がある。「石鎚 緑ラベル」と「寳剱」だ。すっきりとしながらも米の旨みを存分に感じさせ、沁ゆうきの料理と見事に調和する。酒単体で主張しすぎることなく、それでいて食事の流れを美しくつないでいく。初めてこの店を訪れた日も、何度目かの再訪でも、変わらずそこにあることが、この二銘柄の信頼を物語る。
加えて「旭菊 大地」「阿部勘」「喜久酔」といった銘柄も準定番として時折登場する。決して固定されたラインナップではなく、時には「阿部勘 金魚」や「山川光男」といった季節の酒が、さりげなく酒器に注がれることもある。そうして選ばれる一杯には、店主の美学と、沁ゆうきの時間が映り込んでいるのだ。
ここでは、日本酒は単なる飲み物ではない。料理と共に味わい、その場の空気と共に楽しむもの。沁ゆうきの盃には、いつも静かに、けれど確かに、その夜の物語が映っている。
2025/01/31 更新
2025/01 訪問
香る柚子 ~二つのお雑煮の物語~
年始のイベントで供されたのは、沁ゆうき特製の白みそ仕立てのお雑煮だった。白みそのほのかな甘みとまろやかさに、柚子の爽やかな香りが絡み合い、まるで一椀の中に季節の風を閉じ込めたような味わい。焼かれていない餅がつるりとした食感で喉を滑り、冷えた冬の朝に優しい温もりを運んでくれた。
数日後、今年最初の訪問でいただいたのは、すまし仕立てのお雑煮。澄み切った出汁の中に、同じく焼かれていない丸餅が静かに浮かび、上品な柚子の香りが一口目から鼻腔をくすぐる。その透明感と繊細な味わいは、沁ゆうきらしさそのもの。まるで料理そのものが言葉を超えた物語を語りかけてくるようだった。
お雑煮は、地域や家庭によって千差万別の表情を持つ料理だ。私の母が作るのは、すまし仕立てに丸餅を添えた飾り気のない一品。その素朴さが沁み入るような味を思い出しつつ、沁ゆうきのお雑煮に、また違った形の温もりを見出した。
白みそとすまし。異なる二つの味がそれぞれの個性を放ちながら、どこか共通の穏やかさで繋がっている――そんな年始の味比べ。今年も沁ゆうきの料理が、私の記憶に新たなページを刻んでくれる予感がする。
2025/01/08 更新
2024/12 訪問
年の瀬 ~常連たちの宴~
年の瀬も押し迫る頃、「沁ゆうき」の最終営業日は、いつもと少し違う空気を纏う。この夜遅くなると、店のカウンターには常連たちが自然と集まるのが恒例だ。彼らが交わすのは今年一年の出来事や何気ない日常の話題。特別な料理が並ぶわけではないが、店内にはいつも以上に穏やかな温かさが満ちている。
「今年一年間、お世話になりました」
一人が大将にそう挨拶すれば、私も言葉を続ける。「転勤するから今年ほどは来られないかもしれないけど、この店に来るために帰ってくるよ」。その言葉に、大将は少し照れたように微笑みながら「そう言ってもらえると嬉しいです」と応える。店の空気がさらに柔らかくなり、笑い声が交錯する。
今年は大将が初めてお節料理に挑戦しているという話題も出た。その味わいには沁ゆうきらしい丁寧さが詰まっているのだろう。常連たちの期待も自然と膨らむ。
ここにあるのは、料理以上の魅力だ。カウンター越しに交わされる言葉と、それを包み込む穏やかな時間。常連たちの宴はこうして幕を閉じるが、この場所はきっとまた誰かを迎えるだろう。そして私も、帰ってくる日を心待ちにしている。
2024/12/31 更新
ミシュランの星。世界中のレストランを評価する、その象徴だ。中でも三ツ星は、「そのために旅をする価値がある」店にだけ与えられる特別な星。わざわざ時間と手間をかけてでも訪れたい、そう思わせる場所に与えられる勲章だ。
もし、私にとっての三ツ星はどこかと聞かれたら、少しだけ照れながら、それでも迷わず沁ゆうきの名を挙げると思う。月に一度、大阪への出張がある。そのたび、週末の夜はこの店のカウンターで終えるのが習慣になっている。
でも、それだけじゃない。ときには仕事とは無関係に、ただこの店の一皿のためだけに、大阪まで戻ることもある。誰かに説明するのは難しいが、それが自然になっている。
大将の静かな声、しみじみとした料理、手になじむ器。どれも派手ではないが、確かに私の中の日常を支えてくれる存在だ。ここに来れば、またいつもの自分に戻れる気がする。
ミシュランの星はない。けれど、私の地図では、この店が「三ツ星」なのだ。今日もその一皿に迎えられて、大阪の夜が静かに始まる。