69回
2025/12 訪問
それぞれの行き先
河豚にしろ、鱈にしろ、白子の季節がめぐってきた。
同じ“白子”の名を持ちながら、その佇まいも、似合う料理もまるで異なる。
河豚の白子は、熱をくぐらせてこそ真価を見せる。
夏前にいただいた「昆布焼き」や「天ぷら」の余韻はいまも鮮やかだ。
張りつめた膜の下に潜む濃密さは、箸を入れた途端に溶けだし、
火を通すことでようやく、その力を惜しげもなく晒す。
一方、鱈の白子はそこまでの迫力を求めない。
むしろ、その“軽やかさ”が酢の仕事をきれいに受け止める。
最近の沁ゆうきでは、冷たい先付として
「鱈白子の酢の物」がそっと供されるようになった。
白子のとろみを酢のきりっとした酸味が引き締め、
昆布と柑橘の香りが静かに立ちのぼる。
強すぎもせず、弱すぎもせず、
冬の入口にふさわしい、控えめで端正な一皿だった。
白子は、調理法ひとつでその表情をがらりと変える。
だからこそ、季節の切れ目に出会う一皿が、ひそやかに楽しみなのだ。
2025/12/05 更新
2025/11 訪問
端境期の一椀
沁ゆうきの楽しみのひとつに、炊き込みご飯がある。
季節の移ろいをそのまま器に映し、ひと椀に“いま”を落とし込んでくれる存在だ。
四方竹が去り、食材の端境期へと移るこの頃。
冬が本気を出す前の、ほんのわずかな隙間――その静けさを埋めるように、
季節に縛られない炊き込みご飯がそっと姿を見せる。
代表格は鯛めし。
予約をしても、海の機嫌が悪ければ出会えない。
一期一会をそのまま煮含めたような、あの名物である。
そしてもうひとつ、昔から密やかに愛されてきた
「鶏とごぼうの炊き込みご飯」。
今夜は、その穏やかな一椀が〆を飾った。
鶏の旨みが米にゆるやかに染み、ごぼうの香りがふわりと立つ。
派手ではない。けれど、箸を運ぶたびに心のどこかがほどけていく。
端境期の夜には、こうした“季節に寄らない味”がよく似合う。
季節の一椀を追うのも楽しい。
だが、その橋渡しを静かに受け止める一椀こそ、沁ゆうきらしさでもある。
今夜はただ、その優しい炊き込みご飯をゆっくりと味わった。
2025/12/04 更新
2025/11 訪問
静かに始まる冬
沁ゆうきは、いまやコースのみの店だ。
もっとも、来店頻度によってその景色は変わる。
だから私は、二十年近く通い続けているのだろう。
「いつものコース」であって、「同じコース」ではない。
冬メニューが始まった。
ここ数年で定番になりつつある「熊」。
昔からの主役である「河豚」。
季節が深まるほどに、皿の表情も静かに変わっていく。
そんな中で今日選んだのは、正式にメニューへ載った
「河内鴨入りメンチカツ」。
試作の頃に何度か口にしているが、“正式採用”としては初めてだ。
メンチに箸を入れると、ふわりと鴨の香りが立つ。
脂はくどさがなく、旨みがゆっくりと滲む。
薄い衣は控えめで、かえって鴨の味をくっきりと際立たせる。
デミグラスソースと絡むと、コクがさらに深まり、
試作のときより輪郭がひとつ上がったことがわかった。
こうして冬が本格的に動き出す。
沁ゆうきの季節は、今年もまた、静かに始まった。
2025/11/27 更新
2025/11 訪問
冬への小さな合図
季節が進む。
沁ゆうきの献立にも、冬がそっと顔をのぞかせはじめた。
今、店に並ぶのは「河豚」「海老芋」「せこガニ」。
それぞれが、冬の入口を知らせる小さな合図のようだった。
河豚は薄造り。
噛むほどに静かな甘みがひらき、淡いのに、どこか芯のある余韻を残す。
色よりも辛味の強い紅葉おろしが、その淡さをきりりと締めてくれた。
海老芋は唐揚げで。
外は軽く香ばしく、中はほろりとほどける粘り。
芋というより、上品な甘さをまとった“柔らかな衣”に出会ったような食感だった。
せこガニは茹でで。
小ぶりな殻の内側に、ぎゅっと詰まった内子と外子。
ひと口で、冬の海の深い香りがふわりと広がる。
寒さが深まれば、熊の出番が訪れるのだろう。
まだ少し先の、静かな楽しみだ。
河豚、海老芋、せこガニ。
ひとつずつ味わうたびに、季節がまた一歩、冬へと進んでいくのがわかった。
2025/11/14 更新
2025/11 訪問
秋を告げる竹
沁ゆうきの楽しみのひとつに、季節の炊き込みご飯がある。
この季節は、四方竹。
ここでしか食べたことがない。
高知県で秋を告げる竹で、断面が四角いことからその名がついたという。
柔らかすぎず、かといって硬くもない。
噛むたびにほのかな甘みがにじみ、出汁を含んだ米とともに、秋の香りがゆっくりと広がる。
春には豆ごはんや筍ごはん。
夏にはとうもろこし。
そして予約しても入荷がなければ出会えない鯛めし。
季節ごとに、ほんのひとときだけ現れる一椀がある。
季節を感じながら食べるというのは、
単に旬を味わうことではない。
今という時間を、確かに生きているということだ。
今夜の四方竹もまた、そんな“今”の味がした。
2025/11/12 更新
2025/10 訪問
野菜は皿だ
とあるCMで、古田新太さんが叫んでいた。
「野菜は皿か!」
肉ばかり食べて野菜を残す人への嘆き――
その言葉を、沁ゆうきの一皿で思い出した。
この日のメインは、ハンバーグ。
かつてはメンチカツとして姿を見せたが、今回は原点への帰還。
写真を見たとき、輪切りのカボチャにミンチを詰めて焼いたものかと思った。
けれど違った。
カボチャは“皿”だったのだ。
焼き上がったハンバーグの肉汁を、カボチャがすべて受け止めている。
甘みと旨みが重なり、フォークを入れるたび、香りがふっと立ちのぼる。
この皿に限っては、野菜は脇役ではない。
むしろ、主役を支えるもうひとつの舞台。
あのCMでは、「野菜は皿じゃない」と嘆いていたけれど――
この夜ばかりは、そう思った。
やはり、野菜は皿だ。
2025/10/30 更新
2025/10 訪問
季節を譲る夜
沁ゆうきの楽しみのひとつは、選べるメインだ。
いつも悩ませてくれる。
寒くなると、メニューも少しずつ衣替えを始める。
「熊」と「河豚」が顔を出すころ、誰かがそっと姿を消す。
今年、去っていくのは「鴨すき」だった。
それを聞いた夜、迷わず名残の一皿を選んだ。
鍋の中では、脂ののった鴨がゆっくりと色を変えていく。
長ねぎの甘みと出汁の香りが、ふわりと湯気の中で重なる。
箸を入れれば、肉はしっとりと柔らかく、旨みがほどけて広がる。
そこに日本酒をひと口。
冷えた夜の空気までもが、静かに溶けていった。
「熊」や「河豚」に季節を譲りながらも、鴨すきは去り際まで美しい。
春になれば、また会えるだろうか。
湯気の向こうで、そんな思いだけが静かに残った。
2025/10/25 更新
2025/10 訪問
ウイスキー“も”、お好きでしょ
お酒は好きだ。
苦手なものが、無いわけではない。
けれど、気づけばいつも何かしらの盃を手にしている。
今でこそ日本酒が多いが、私のお酒人生はバーボンに始まり、やがてスコッチへと進んだ。
氷が鳴る音。
琥珀の香り。
その頃の夜には、まだ若さの苦みが混ざっていた気がする。
この夜の沁ゆうきでは、隣の客と会話が弾み、日本酒が思いのほか進んだ。
だが、揚げ物が出てきたところで、ふと切り替える。
――角ハイをください。
グラスの中で弾ける泡を眺めながら、不意に流れる旋律。
石川さゆりさんの「ウイスキーが、お好きでしょ」。
思わず小さく笑ってしまう。
そう、日本酒も好きだが、
ウイスキー“も”、お好きです――と答えながら。
2025/10/16 更新
2025/10 訪問
定番という特別
ひとりで訪れることも多いが、大切な人をもてなすときにも、この店を選ぶ。
この夜は、いま抱えているプロジェクトのメンバーを誘った。
こういう日ばかりは、私用の少し変わったコースではなく、この店の定番を並べる。
冷・温の先付に始まり、お造りの盛り合わせ、焼き物、箸休め、そしてメインと〆、デザートへ。
その流れの中で、料理が静かに店の物語を語り出す。
メインと〆はそれぞれが選べる。
「何がお勧めですか」と問われ、私は笑って返した。
――好きなものを選びなさいよ。
全部食べたからこそ言える、「何を食べてもおいしいよ」。
私は今日は「ねぎま鍋」と「トロたく巻」。
湯気の向こうで、それぞれが自分の一皿を楽しみ、穏やかに笑っていた。
誰かを連れてきたくなる店。
私にとってそれは、いつも変わらぬ定番であり――
少しだけ特別な場所なのだ。
2025/10/15 更新
2025/10 訪問
丼の記憶
ふと記憶をたどると、「にのま」にあった一品が甦る。
名を「うにとろいくらのちょっと丼」といった。
その名の通り小ぶりで、うに、まぐろ、いくらが散りばめられた、愛らしいちらし寿司。
一口ごとに贅沢さと可笑しみが同居していて、だからこそ心に残ったのだろう。
そしてこの夜、沁ゆうきで供されたのは、その記憶を呼び覚ますような一椀。
ただし今回は“ちょっと”ではない。
器は中川自然坊の作。
飯茶碗にしては小さく、酒器にしては大きい、あの曖昧さをそのまま抱えた器に、
盛られていたのは──にのまの頃よりも少し大振りに仕立てられた丼だった。
うにの濃厚な甘みが舌を覆い、まぐろの旨みが静かに寄り添う。
いくらの弾ける塩気が全体をきりりと引き締め、口の中で調和と変化が繰り返される。
懐かしさとともにいただくその丼は、過ぎ去った時間を呼び戻し、
新しい「丼の記憶」として、器の中に静かに刻まれていた。
2025/10/03 更新
2025/09 訪問
いちじくの記憶
記憶を遡れば、いちじくとの最初の出会いはバーのカウンターだった。
琥珀色の酒に寄り添うように置かれたドライフルーツ。
ねっとりとした甘みと、かすかな酸味。
それが強いアルコールをやわらかく包み込んでくれたことを、今も覚えている。
やがて季節が巡り、生のいちじくにも出会う。
単体で食べることは少ないが、和食の白和えにひっそりと紛れ込む。
淡い甘みと瑞々しい食感が、胡麻や豆腐のまろやかさに寄り添い、静かに調和していた。
そしてこの夜、沁ゆうきで供されたのは、焼き魚の横に豆腐ソースをまとったいちじく。
胡麻の風味が魚の塩気をやさしく引き立て、盃を手にするたび、過去の記憶がふっと甦る。
料理の合間に、いちじくの話をしていたからだろうか。
最後に出てきたのは──ドン、と一皿のいちじく。
その存在感の前では、言葉は要らなかった。
ただ頷きながら、古い記憶の隣に、新しい記憶が静かに添えられていった。
2025/09/26 更新
2025/09 訪問
未完の完成
何かを形にしようとするとき、頭の中には「完成形」という像がある。
けれど、試作を重ねるたびにその輪郭は揺らぎ、気づけば手の届かぬまま霞んでいく。
では、どこで試作を止めるのか──。
実はそれこそが、一番難しい問題なのだ。
この夜、私に出されたのは四作目。
もっと前に、あるいは他の客には、さらに多くの試作が並んでいたのかもしれない。
皿の底には香味野菜がしっとりと敷かれ、その上に赤く艶めく魚。
鰹か、あるいは鮪か。
さらに春巻きの皮がカリリと添えられ、三味が口の中でひとつになる。
脂と酸味と青みとが、不思議な均衡を保ちながら。
「これで一応の完成かな」
そんな大将の声が聞こえる気がした。
私に出されたのは、数ある試作のひとつにすぎない。
だが、その形は確かに完成の一歩手前まで辿りついていた。
もっとも、大将のことだ。
また何か思いつけば、すぐに改造は始まるだろう。
そう予感しながら口にした一皿は、やはり「一応の完成形」と呼ぶにふさわしかった。
2025/09/18 更新
2025/09 訪問
ソースが選ぶ夜 ~封じられたハンバーグの行方~
ハンバーグを揚げたら、それはメンチカツになるのだろうか。
そんな素朴な問いかけから始まった試みは、思いのほか早く結末を迎えた。
最終的にメニューに残ったのは、ハンバーグではなくメンチカツだったのである。
理由は単純だ。
カリッと揚がった衣がデミグラスソースをよく絡め、口に運べばサクッとした食感のあとに、肉の旨みとソースのコクが一体となって広がる。
焼き目の香ばしさを誇るハンバーグも悪くはない。
だが、ソースとの相性を考えるなら、やはり衣をまとったメンチカツに軍配が上がる。
しかも厨房の段取りにおいても、焼くより揚げる方が自然に馴染んだ。
その夜、隣の席の客がぽつりとつぶやいた。
「結局、残ったのはソースに選ばれたほうってことだね」
なるほど。
勝者は料理そのものではなく、デミソースが導いた相棒の方だったのかもしれない。
2025/09/12 更新
2025/08 訪問
三人揃えば、まぐろ三兄弟
子供のころ、鮪を食べることは少なかった。
両親が好まなかったからだ。
だから鮪の魅力を知ったのは、大人になってから。
今はもう無い、あのバーの一階にあった寿司屋。
そこで初めて、赤身の凛とした酸味に目を開かされた。
沁ゆうきで出会うのは、また別の顔を持つ鮪だ。
〆に供されるネギとろ巻は、ほどける脂をシャリがやさしく受け止め、すっと消える。
トロたく巻は一転して沢庵の歯ざわりが加わり、濃厚と軽快が同居する。
そして、ごく限られた日にだけ現れる鉄火巻。
赤身の潔さがまっすぐに響き、三兄弟の長兄らしい風格を放つ。
もし三人で訪れ、それぞれが一巻ずつを頼み、三人でシェアすれば――。
一晩にして三兄弟を制覇できる。
そんな夜は偶然ではなく、巡り合わせの妙。
誰にとっても忘れがたい祝祭となる。
2025/09/04 更新
2025/08 訪問
封印される前に
きっかけは、一皿のデミグラスソースだったらしい。
どこかで出会ったその深い味わいに触発されて、大将は思った。
――このソースにふさわしい料理を作りたい、と。
まず試みられたのは、やはり定番のハンバーグ。
皿の上で立ちのぼる湯気に、濃厚なソースをまとわせる。
添える卵は目玉焼きか、それとも半熟卵か。
いや、昔ながらの洋食屋を思わせるカットしたゆで卵もありではないか。
そんな議論だけで、一夜が過ぎてしまうほどだった。
だが結局、メニューに残ったのはメンチカツ。
デミソースを受け止めるのは、肉の塊ではなく、衣の力強さだと判断されたのだろう。
となれば、このハンバーグはしばらく封印される運命にある。
私が口にしたのは、その封印前のほんのひととき。
偶然ではなく、通い続けてきた者だけが与えられる一皿。
――常連の特権とは、きっとこういう瞬間を指すのだ。
2025/09/03 更新
2025/08 訪問
夏の粒々
夏という季節が来るたびに、どうしても思い出してしまう食材がある。
トウモロコシ──甘くて、香ばしくて、そしてどこか懐かしい。 屋台の焼きとうもろこしにかぶりつくのも、もちろん嫌いじゃない。けれど、料理人の手にかかると、この夏の実りはまったく別の表情を見せるのだと、この夜あらためて知った。
たとえば、温かい先付。茶碗蒸しの上にとろりとかかった出汁餡。その中から、つぶつぶのトウモロコシが顔を出す。出汁の香りとともに、ふわりとした甘みが舌に触れ、ひと口目から季節の輪郭がゆっくりと立ち上がってくる。
揚げ物は、豆のコロッケ。断面に、黄色い粒がいくつも覗いていた。豆の香りに包まれながらも、噛むたびにじんわりと甘みを広げていくトウモロコシ。主張は控えめでも、確かな存在感を放っていた。
〆には、とうもろこしごはん。湯気の中にふわりと浮かぶ黄色の粒。蓋を開けた瞬間、ひと夏ぶんの陽差しが、茶碗の中に射し込んだようだった。塩とほんの少しのバターが、その甘みを引き出して、まるで計算されたかのような余韻を残す。
思えばこの夜は、「トウモロコシづくし」というほどではなかった。けれど、どの皿にも、その甘みと気配が静かに息づいていた。
名脇役?──いや、違う。 和食の世界でも、主役を張れる。そう思わせる、確かな一夜だった。
2025/08/20 更新
2025/08 訪問
試作の脇道
沁ゆうきの大将には、時折、突発的に“中華の風”が吹き込むことがあるらしい。以前は海老チリ。あの完成度を前にしては、常連もただ黙って箸を伸ばすしかなかった。だが今回、その風が向かった先は──春巻き、だった。
メニューにはまだ載っていない。けれど、裏では着々と試作が進んでいるという。そしてある夜、ふらりと出てきたのは、その副産物だった。余った春巻きの皮をカリリと揚げ、その上にたたきの魚と香味野菜。ただそれだけの即興。けれど、その皮の上で、味がひとつにまとまっていた。
本来は鰹だが、私の好みを知ってか、まぐろで供された。
そもそもこれは、春巻きという“本道”の試作から、ふとこぼれ落ちた“脇道”の料理にすぎない。けれど、沁ゆうきという店は、そうした寄り道の先で、思わぬ定番を見つけてきた場所でもある。
完成へ向かう道の途中で、思いつきで踏み込んだ脇道。だが、その一歩の先にしかない景色が、たしかにある。料理とは、そういうものかもしれない。
2025/08/07 更新
2025/07 訪問
封じられた記憶、すくい上げる旨味
この店で供される「旨出汁ゼリー」を、初めて目にしたときのことを、いまでもよく覚えている。透きとおるゼリーの中に、生湯葉がたゆたい、その上に雲丹といくらが彩りを添える──まるで一皿の中に季節と贅を封じ込めたような、そんな佇まいだった。
だが、これは突然生まれた料理ではない。聞けば、大将が修行していた店に、原型ともいえる夏の一品があったという。焼き茄子とオクラを使った、涼味を極めた旨出汁ゼリー。喉をすべり落ちるその味は、修業時代の記憶とともに、いまも大将の中に息づいている。
「沁ゆうき」のゼリーは、その記憶に、湯葉のやわらかさと、雲丹・いくらの華やかさを重ねたものだ。ひと口ごとに静かに、しかし確かに伝わってくるのは、原点を忘れず、けれどそこに留まらないという意志。受け継ぎ、変え、磨き上げる──それは、料理における進化の形であり、店の姿勢そのものでもあるのだろう。
過去があるから、いまがある。そして、“いま”が、また誰かの原点になる。そんな循環を、この小さなゼリーが静かに物語っている気がした。
2025/07/31 更新
2025/07 訪問
コロッケをどうぞ、ふたたび
コロッケに季節を感じるなんて、少し前まで思いもしなかった。
そら豆のコロッケに出会ったのは、春の名残がまだ風に残る頃。衣の中に閉じ込められた香りが、青く、ほの甘く──あの一皿には、たしかに季節が息づいていた。
そして今夜、ふたたび。
供されたのは「ぼんちゃ豆のコロッケ」。山形・鶴岡の在来種と聞く。箸を入れれば、衣の裂け目から立ちのぼる湯気。その瞬間、鼻腔を射抜くのは、濃い緑の香り。豆でありながら、まるで若葉のようでもある。むしろ、山の土をまとった草の気配さえ感じる。
舌の上では、ほっくりとした餡が静かにほどける。甘みは控えめで、香りの奥に沈んでいる。そう、香りが主役なのだ。一口ごとに鼻を通り、静かに余韻を残していく。
素材を包み、形を変えるのがコロッケだとしても──この店では、素材が“語りかけてくる”。衣の向こうで、確かに何かが息づいている。
だから、やっぱりこう言いたくなる。
コロッケをどうぞ──ふたたび。
2025/07/29 更新
時折、この店では、同じ食材が続けて姿を見せることがある。
どうやら大将の関心が、今は「白子」に向いているらしい。
先日の酢の物に続き、今夜は「鮨」と「コロッケ」。
皿が運ばれてくるたび、心の中で小さくつぶやく。
白子づいてないか、と。
まずは鮨。
海苔に包まれた白子は、とろりとほどけ、添えられた薬味が輪郭を与える。
酢飯の酸が甘みをきりっと引き締め、
あとには静かな余韻だけが残った。
主張しすぎず、それでいて確かに記憶に残る一貫である。
続いて、軟白ネギとホワイトソースを合わせた白子のコロッケ。
衣を割ると、中から白子が現れ、熱を受けて少しだけ表情を変えている。
ネギの甘みとソースのコクが重なり、
白子の旨みを別の方向から引き出していた。
揚げる、という選択がここではよく似合う。
ひとつの食材に、酢、鮨、揚げ。
手を替え、品を替え、可能性を探り続ける。
こうして引き出しを増やしてきたのだろう。
白子づいているのは、気まぐれではなく、探究の途中にすぎない。