79回
2024/12 訪問
和食の終幕 カレーという名の異端
和食のコースメニューを見ていたとき、「カレー」の二文字が目に飛び込んできた瞬間、思わず目を疑った。「和食のコースにカレーとは?」という思いが頭を駆け巡る。繊細な味わいの流れに、あの異国のスパイスが入り込むことに、一瞬、違和感を覚えたのだ。しかし、興味本位で頼んだその一皿が、あっさりと私の先入観を打ち破った。じっくりと煮込まれた牛スジが織り成す深いコクと、和食の余韻を見事に引き立てるその味わい。まさに「異端」と呼ぶにふさわしいが、同時に「これこそが〆にふさわしいカレーなのだ」と納得させる説得力を持っていた。
現在では、牛スジカレー、海老カレー、カツカレーの三種が用意されている。牛スジとカツは共通のベースを持ち、海老カレーは海老出汁の芳醇な香りが特徴的だ。それぞれが放つ個性の強さに、選択を迫られるのが常だ。先日も、牛スジにするか海老にするか悩んでいると、隣の席のお客さんも同じように決めかねている様子だった。「半分ずつにしてみませんか?」と声をかけると、快く提案に乗ってくれた。大将に頼んで「あいがけ」を作ってもらい、皿を分け合いながら楽しんだその時間は、料理の味だけでなく、人との小さな交流を味わう特別なひとときとなった。
このカレーは単なる「和食の〆」ではない。和食の枠を超え、思わぬ形で人と人を繋ぐ役割も果たしている。その奥深さと完成度に触れるたび、またこの店を訪れる理由が一つ増えるのだ。和食の伝統に挑むかのような異端の一皿。その魅力は、きっとまだまだ語り尽くせない。
2024/12/19 更新
2024/12 訪問
酒器と日本酒の物語
父は酒器、母は茶器のコレクターだった。それぞれが丹念に器を集める姿は、まるで自分の中にある小さな宇宙を紡ぎ出しているようだった。その影響を受けた私は、両方の世界に憧れを抱きながらも、自然と酒器、特にぐい吞みの持つ魔力に取り込まれていった。
唐津焼。その名を聞くだけで、私の心には素朴で力強い陶肌の風合いが浮かぶ。自然の力に任せた窯変が生む偶然の模様、釉薬の流れが作る生きた表情。それらが器に宿る荒々しさと温かみを際立たせ、手に取るたびにその存在感が問いかけてくる。「私をどう使う?」と。その中でも皮鯨や朝鮮唐津は特別だ。釉薬の流れが偶然生み出す濃淡や、飴色の中に漂う白の流し掛けが、一つひとつ異なる表情で語りかけてくる。
「沁ゆうき」では、日本酒とともに供されるぐい吞みが、毎回私を驚かせ、そして魅了する。ある日のこと、作家物の朝鮮唐津のぐい吞みが、私の視界に飛び込んできた。指先で触れると、陶肌が持つわずかな凹凸が語りかける。「この器の物語を知りたいか」と。その器に酒を注ぎ、唇に運んだとき、器と酒と私の間に確かな対話が生まれた。
その日以来、私はその作家のぐい吞みを追い求めるようになった。「沁ゆうき」では、その時々の気分に合ったぐい吞みを選ぶ楽しみも格別だ。唐津焼のぐい吞みを手にしながら飲む日本酒は、ただの飲み物ではなく、器の持つ風合いや物語とともに、心に染み入る特別なひとときとなる。酒器と茶器。それぞれの器が織りなす時間の流れは、ただの道具ではなく、私にとっての旅の相棒だ。人生の喜びとは、こうした些細な出会いと、そこから生まれる物語にあるのかもしれない。
2024/12/11 更新
2024/12 訪問
塩とレモンが語る光の記憶
「沁ゆうき」の大将が、料理人として最初の一歩を踏み出したのは、高知県の寿司屋だったという。その地で培われた寿司への思いは、単なる技術や形式を超えて、一貫一貫の細部に宿る魂そのものだ。寿司とは、魚の鮮度や米の炊き加減、酢の加減といった要素が織りなす絶妙な調和の結晶であり、それに注がれる情熱こそが、彼の料理の核を成しているのだろう。
最近、〆のメニューに巻物が加わっている。ネギトロやトロたくといった馴染み深い一品はもちろん、鮪の赤身が極上の時には、鉄火巻がそっと姿を見せる。素材の質が生む至福の瞬間がここにある。素材を知り尽くし、最大限に引き出すその技量は、どれだけの研鑽を積んだ証だろうか。
だが、私の心を最も奪うのは、冷たい先付として提供される一貫の寿司だ。その中でも、鰺などの光物を塩とレモンで仕立てた一品には驚嘆を禁じ得ない。塩の角を包み込むレモンの酸味が、魚の旨みを静かに際立たせる。その味わいが口の中で広がる様は、まるで光が差し込む静謐な朝の海のようである。
この塩レモン寿司を、三貫ほどの〆メニューとして供してくれたら、と密かに願うことがある。寿司という瞬間芸術の魅力に浸る時間を、少しでも長く味わいたいという欲求は、大将の生み出す芸術に対する純粋な敬意にほかならない。料理の枠を超えて、人の心に沁み入るその寿司が、次にどのような物語を紡ぐのか。その期待に胸を膨らませながら、また店を訪れたいと思うのである。
2024/12/09 更新
2024/12 訪問
餡子は水物にあらず? その答えを待つ日まで
和食のコースを締めくくる「水物」。その響きに、なぜか心が浮き立つのはどうしてだろうか。多くの場合、それは果物や寒天といったさっぱりとした甘味だ。食事の締めくくりにふさわしく、口の中を清め、胃袋に最後の余韻を与える存在。だが、この店の水物は一線を画している。
皿の上には塩バニラジェラートが盛られ、その周囲を鮮やかな季節の果物が彩る。そして、ひときわ存在感を放つのが「あんこや ぺ」さんの餡子である。餡子といえば、普通は和菓子の中心的存在。しかしここでは、それが果物とジェラートに寄り添う脇役のように見える。だが、一口食べればすぐに気づく。この餡子こそが、全体の調和を生む主役なのだ。
苺大福がその証明だ。甘さと酸味の絶妙な組み合わせが人々を魅了してやまないように、ここでも餡子と果物の相性は抜群だ。そして、塩の効いたジェラートがその甘さを引き立てつつ、後味を涼やかに整える。
しかし、耳にしたのは「あんこや ぺ」さんがしばらくお休みになるという知らせ。その知らせに一瞬心が揺れたが、ふと気づいた。これは「終わり」ではない。営業再開の日を楽しみに待つ時間もまた、餡子を愛する者の楽しみの一部なのだ、と。餡子は水物にもなる。その不思議な可能性を、再び味わえる日を思い描きながら、今日の余韻を胸に家路についた。
2024/12/04 更新
2024/11 訪問
毒と甲殻に怯まぬ欲求
冬の味覚といえば、ふぐと蟹だ。この二つ、いずれもただの「食材」として語るにはあまりに特異な存在だ。ふぐは猛毒を持つ魚として恐れられ、蟹もその甲殻と鋭い爪が見る者に戦慄を与える。だが、その外見や危険性を超えてなお、私たち日本人はこれらを「美味」に変える術を手にしている。それどころか、危険と隣り合わせであることすら美味しさの一部として捉えるのだから、不思議なものだ。
この店では冬になると、てっさが盛り合わせの一部として登場する。その身が醸し出すのは、見た目の軽やかさとは裏腹な旨味の深さ。他にも、唐揚げや焼きふぐという選択肢があり、いずれも職人の技が光る。そして、せこがにだ。内子と外子の繊細な味わいを酢の物に仕立てた一皿は、短い旬を存分に楽しませてくれる。
そもそも、ふぐと蟹のどちらも、誰かが「これを食べてみよう」と決意しなければ今のような料理にはならなかったはずだ。その背景には、未知を恐れず、美味しいものを追求する日本人の執念すら感じられる。私もまた、その営みに加わる一人だ。冬の夜、鍋を囲むたびに思う。「美味しいものを求める心こそ、季節が私たちに与える最大の贈り物なのだ」と。
2024/11/26 更新
2024/11 訪問
食の選択と揺らぐ決断
メインメニューを選ぶという行為は、一見すれば単純で何気ないように思える。だが、その裏には複雑な論理と、選択の妙が秘められている。まずは、基本とも言える戦略から始めよう。コース全体の構成を精密に把握し、その流れに沿う選び方だ。揚げ物が続く時は、バランスを重んじて煮魚やねぎま鍋、はりはり鍋を選ぶことで、味覚の調和を見事に整える。しかし、人間とは理屈だけでは動かないもの。欲望が心を支配する瞬間も訪れるのだ。例えば、どうしても揚げ物が食べたい日がある。コースに既に揚げ物が含まれていようと、さらにエビフライを追加し、油の快楽に浸ることを選ぶこともある。そしてもう一つの方法は、締めを意識した計画的な選択である。ご飯セットで締める予定なら、煮魚かすき焼きをメインに据え、全体の調和を計算する。とはいえ、世の中は予定通りにいかないもの。大将が「メニューにないですけど、こんなのもできますよ」と囁けば、心が揺れるのも無理はない。今日もその一言に惑わされながら、選択という名の運命の扉を前に、深く考えを巡らせているのだ。
2024/11/21 更新
2024/11 訪問
幻の一皿 ~常連の勲章~
常連の特権とは、他の客にはまだ知る由もない特別な体験を享受できることである。例えば、頻繁に訪れることで、まだ見ぬ新作メニューを最初に味わう幸運に恵まれることがある。それだけでも十分に価値ある喜びだが、さらに特別な機会は、メニュー表に載る前の試作段階の一皿に巡り合うことだ。この一皿は、未だ未完成の作品であり、完成を夢見る“暁の一滴”であるかのような、儚さを秘めている。
しかし、この特別な瞬間を単なる贅沢と捉えるだけでは、真の常連とは言えまい。常連客としての責務は、その試作に意見を述べ、より良き一皿へと導くことである。食感や香り、味のバランスをどう整えるべきか、店主やシェフとの対話の中で「食感にもう少し変化を加えてみてはどうか」等と思いを伝える。それが形を成し、完成品に少しでも自分の思いが反映されたなら、その感動は計り知れない。新たなメニューが自分の好みを宿し、さらなる愛着を持って通い続けることとなる。
とはいえ、全てがメニューに並ぶわけではない。幾度も試作を重ねながら、日の目を見ることなく消えていく“幻の一皿”も多い。しかし、それを知るのは、限られた数少ない常連だけである。その誇りは、あたかも秘密を共有する仲間であるかのような、特別な勲章として胸に刻まれるのだ。
2024/11/14 更新
2024/11 訪問
海老?に魅せられた味覚
食材としての海老が、なぜこれほどまでに人を魅了するのか。プリッとした歯応え、口の中でふんわりと広がる甘み、そしてどんな料理に姿を変えても際立つその存在感。無論、これは単なる好みの話にとどまらない。海老に秘められた力が、私の心に作用しているのではないか――そう考えざるを得ない瞬間がある。
その日もまた、まず最初に味わったのは海老芋の唐揚げだった。あたりまえだが海老の名を持ちながら、これは海老ではない。だが、もっちりとした食感と香ばしい揚げ加減がたまらなく、初めの一口から心を掴んで離さない。そして次に手が伸びたのはエビカツ。海老をミンチにした海老をつなぎに用いた純度100%のエビカツだ。揚げたての衣はサクッと軽やかに弾け、中のジューシーな旨みが口いっぱいに広がる。たっぷりのタルタルでも、ウスターソースでもどちらにも相性が良いその美味しさには無条件降伏するしかない。最後に海老カレー。スパイスの香りと海老の甘さが絶妙に絡み合い、スプーンを進めるたびに至福の時間が訪れる。
こうして考えてみると、食材の好みは味覚の記憶とともに、無意識のうちに食卓を支配している。次は何の海老料理にしようかと、また思案が続くのだ。
2024/11/06 更新
2024/11 訪問
お米愛の向こうにあるもの
普段、私はご飯に強いこだわりは持たない人間だ。ご飯は食卓の脇役としての存在に過ぎない。だが、このお店だけは別である。この店のご飯には、どうしても心を奪われる何かがあるのだ。とりわけ、季節の食材をふんだんに取り入れた炊き込みご飯や、予約必須の鯛めしには、食べるたびに驚かされる。
鯛めしの存在が今、表メニューから消えているのはなぜなのだろうか。店主の計算なのか、それともただの偶然か――。裏メニューとして、常連にのみ提供される特別な一品であるかのように扱われていることを考えると、何とも不思議な魅力が漂う。ましてや、普段一人で訪れる私にとって、「二人以上」というオーダーの制約は少々悩ましい。それでも、特別な日には、どうにかその壁を乗り越えて頼みたくなる一品である。
自分で炊いたご飯では決して味わえない、得体の知れない深い味わい。それがこの店のご飯には確かにある。きっとそこには、お米一粒一粒に注がれた店主の尋常ならぬ愛情が込められているのだろう。その想いがご飯の隅々にまで浸透し、私の心にまで染み入る。だからこそ、ここでだけは、私はご飯を心から「美味しい」と感じるのだ。
2024/11/03 更新
2024/10 訪問
酒肆の秘めたる妙味 ~“おまかせ”への期待~
この店にはビール、ワイン、焼酎といった多種多様なお酒が揃っているが、不思議なことに日本酒だけは店主の「おまかせ」で提供されるという興味深い仕組みが存在している。この一見シンプルな「おまかせ」スタイルには、実は奥深い理由が隠されているのだろう。
店主は、客一人ひとりの好みや、注文された料理の内容、その日の気候や空気の流れまでをじっくりと観察し、最適な日本酒を探し出すという。まるで、こちらの心を見透かすようにして差し出されるその酒は、常に意外性に満ち、予測を超えるものばかりだ。私も、二種類の酒を頼むのが常だが、そのたびに新たな発見があり、驚きがある。そして、店主の選ぶ酒には、私が好むものばかりでなく、苦手なものが一切含まれていない点も見逃せない魅力である。こうした巧妙な「おまかせ」の背後には、長年の経験に裏打ちされた店主の洞察と、客の期待を裏切らない工夫が感じられる。
結局のところ、「日本酒はおまかせに限る」というのは、自分の選択に囚われず、店主の感性に身を委ねることで、日常では味わえない一杯に出会う、稀有な体験を手にしているからなのだ。
2024/10/29 更新
2024/10 訪問
幻の一品と、逸品の行方
私は、どうしても季節限定や個数限定のメニューに心惹かれてしまう。特に「幻のメニュー」という言葉には、強く抗えない。例えば「鯛のかぶと煮」。一日一個限定ではあるが、早めに店に足を運べば、ほぼ確実にその味を堪能できる。しかも、時には鯛が手に入らない時には縞鰺に替わることもある。その特別な一品を目当てに、私は何度もそのメニューを選んでしまうのだ。
だが、真の意味での「幻のメニュー」といえば、やはりイベリコ豚のステーキが相応しい。この一品は仕入れの状況次第で、メニューに並ぶかどうかが決まるため、運が悪ければ出会うことすらできない。だからこそ、もしこのイベリコ豚がメニューに登場していたなら、その瞬間、鯛や縞鰺の存在を忘れてしまうほどだ。「幻」のステーキを味わえるかどうか、この一瞬のスリルに、私はすっかり魅了されている。数量限定や仕入れ限定、それぞれがもたらす一時の贅沢を楽しむために、私はまたその店の扉をくぐってしまうのである。
2024/10/22 更新
2024/10 訪問
断ち切られた継承と紡がれる時間
昔から、飲食店というものは、ただ食を満たす場ではなかった。人と人との絆がそこで紡がれ、目に見えぬ教えが食事と共に伝えられてきたのだ。年長者が後輩を連れ、料理を通して支払いの仕方や礼儀を、無言のうちに教える――まさに、それが「伝統」というものであった。しかし、時代は移ろいゆく。「飲みに行こう」などという誘いですら、今ではパワハラとされかねない。この空気の中、先輩から後輩へと自然に伝えられるべきものが、今や失われつつあるのだ。
あの日、馴染みの店で偶然後輩に出くわした時、私は気づいた。かつて教えるべきだったことを、何一つ伝えずにきた自分の過ちに。そして、その胸に深い後悔が刺さった。今さら後悔しても、時は巻き戻せない。だが、その重みは増すばかりだ。
目の前に運ばれてきた焼き魚を見ながら、ふと思った。魚が焼かれるという一見簡単な行為の中にも、職人の技が込められている。焼き加減、塩の振り方、すべてが一朝一夕で得られるものではない。そしてそれは、受け継がれた知恵の結晶でもある。
箸を進めながら、私は静かに後輩に言った。「今度、一緒に食事でもどうだ?」驚いた後輩の顔を見て、かすかな緊張を感じたが、その後の彼の笑顔と頷きがそれを消し去った。その瞬間、私は感じた。かつての伝統が、こうして新たな形でまた一つ繋がったのだと。
2024/10/16 更新
2024/10 訪問
止まった時を刻む時計 〜永遠のひとときを求めて〜
その店には、まるで時間を拒むかのように、針を止めたままの古びた柱時計が飾られていた。時計の針は動かず、静止したその姿は、店内に独特の趣と哀愁をもたらしていた。店主は、「壊れて動かないのですが、わざわざ残しているんです。お客様には、時を忘れて料理を楽しんでもらいたいという願いを込めて」と語り、その理由を教えてくれた。その言葉どおり、店内には、流れる時間がどこか緩やかになったかのような、不思議な空気が漂っていた。
彼女の誕生日にその店を予約した際、私はひそかに店主に頼み込んだ。「この時計を、今夜だけ彼女の誕生日の時間に合わせてもらえませんか?」と。派手な演出や大掛かりなサプライズは用意しなかったが、その時計がただ一夜限り、彼女のために特別な時を刻んでくれることを願ったのだ。店内の静寂の中、その時計は誕生日の時間を示し、まるで二人だけのためにその瞬間が用意されているかのような錯覚をもたらした。
しかし、時の流れには逆らえず、やがてその店も閉店し、柱時計は我が家へと迎え入れられることとなった。かつての店の面影は、本店にその名残を留めている。今年もまた彼女の誕生日が巡ってきたが、特別な仕掛けを用意することはせず、ただ本店であの時と同じ「鯛めし」を注文した。あの店でのひとときが甦るような味わいの中、彼女と再び静かな夜を過ごした。
そして私は、再び時計の針を彼女の誕生日の時間に合わせた。動かぬはずの時計が、その瞬間だけはまるで再び息を吹き返したかのように感じられた。その止まった時間には、彼女との変わらぬ思い出が静かに息づいている。時計が動かなくても、私たちの心に刻まれた時は色褪せることなく、むしろ時を超えて輝きを増しているかのようだ。
2024/10/11 更新
2024/10 訪問
ほどよいわがままから生まれたカツカレー
「わがまま」というものは料理屋でのお客と店主との関係に微妙に現れるものだ。常連客ともなれば、その店の料理に詳しくなるだけでなく、店主とのやり取りにも慣れ、時には少し大胆な注文をしたくなることもある。手持ちの食材にないパスタを頼んだり、忙しい時間帯に出汁巻きのような手間のかかる料理をお願いしたりと、つい無理な「わがまま」を言いそうになることがあるのだ。
だが無理を言わないこともまた、重要なポイントだ。店の状況を見極め、手持ちの食材で対応できる範囲でのリクエストなら、それは「ほどよいわがまま」として許容され、むしろ店主との信頼関係を深めるきっかけにもなる。
例えば、この店では、常連の一人が「牛スジカレーにとんかつをトッピングできないか?」とふと口にした。それを受け入れた店主は、その「ほどよいわがまま」をきっかけにカツカレーをメニューに加えたのだ。それまではスパイシーな海老カレーが人気だったが、カツカレーが登場してからというもの、男性客の注文は一気にカツカレーに傾いた。お客と店主のこうした小さなやり取りが、新たな人気メニューを生むのだから、「ほどよいわがまま」は決して軽視できない。
2024/10/09 更新
2024/10 訪問
縁を紡ぎ、和を味わう ~ 接待という文化
この店は、接待の場としてしばしば利用されている。私自身も、ここで接待を受けたこともあれば、逆に接待をしたこともある。ビジネスの世界における接待とは、ただのもてなし以上に、相手との信頼関係を築き上げるための重要な儀式だ。互いに限られた時間を共有し、会話や身のこなしを通じて深まる信頼――それは一時的な取引の道具ではない。
接待の本質を考えると、それは仏教における「和」の精神、すなわち調和を重んじる心に通じている。相手に敬意を払い、心を込めて応対することで、お互いの間に新たな「縁」が生まれ、その縁が長きにわたり結ばれる。単なる契約や取引を超えて、相手との絆が深まり、共に成長するためのものなのだ。
この店は、まさにそのような縁を紡ぎ出す特別な場を提供してくれている。静かでありながらも温かみのある空間、そして品のある料理が、接待という行為に一層の深みを与え、相手との関係をより豊かなものにしてくれる。ここで過ごすひとときは、ビジネスの枠を超え、心の交流として記憶に残るに違いない。
いつも3品目に登場する「お造りの盛り合わせ」。冷たい先付、温かい先付は、幾つかの素材を組み合わせ、その味わいに微細な工夫が凝らされているが、ことお造りに関しては、余計な思考を必要とせず、ただ純粋に「美味しさ」を感じさせてくれる。特に、ほぼ毎回盛り込まれる蛸のあぶりは、この店の名物だ。アラカルトの時代には、この蛸のあぶりだけを注文する客も居たにはいたが、予想以上の値段になったであろうことは想像に難くない。
いつもの中川自然坊さんの俎板皿だけではなく、他のお皿も登場する。そのお皿もまた、季節感や料理に合わせて選ばれ、料理との絶妙な調和を見せる。器の変化は、料理だけではなく、視覚的な楽しさも添えてくれるのだ。
お造りが持つ「シンプルさの中の深い美味しさ」、そしてそれを引き立てる皿の存在が、この店の奥深さを一層感じさせる要素であり、訪れるたびに新たな発見をもたらしてくれる。このような繊細な配慮が、この店の真髄を物語っているのである。
2024/10/03 更新
2024/09 訪問
時を刻む常連たちと進化するお造り―店が織りなす静かな時間
常連が多く集うこの店には、私を含め定期的に予約を入れている人たちが少なからず存在する。毎週火曜日や隔週金曜日といった具合に、帯で予約している者も多いのだ。私もそんな一人として、決まった曜日に訪れることが常となっている。興味深いことに、曜日が指定されているためか、他の常連と顔を合わせることはそれほど多くはない。
それでも、ふと別の曜日に足を運ぶと、顔見知りに会うことは珍しくない。もっとも「初めまして」というようなことはないが、「お久しぶりです」といった挨拶が飛び交うことが少なくないのだ。この店の常連たちがそれぞれに織りなす小さなコミュニティ。その中で、私は静かに存在感を保っている。
そして、この店での楽しみの一つが、四季折々に変化する「お造りの盛り合わせ」である。そのスタイルも時期によって異なり、かつては塩ものや山葵ものが二皿に分かれて提供されていた時期もあったが、最近では一皿にまとめられた一盛りが定番となっている。振り返ってみれば、ここでお造りを食べなかったことなど、アラカルトが主流だった頃のほんの数回しかないだろう。
さらに、このお造りが盛られる俎板皿には特別な意味がある。これは、陶芸家・中川自然坊さん晩年の作品群であり、この時期にしか見られない独特の色合いを持つ。時の流れとともに形を変え、進化してきたお造りのスタイルと、この俎板皿の重みが、店の奥深さを一層際立たせているのだ。時間の移ろいを感じさせながらも、決して期待を裏切らない――それが、この店における静かな魅力である。
2024/09/30 更新
2024/09 訪問
時の流れと共に変わる縁 〜出会いと味覚が織りなすお店の秘密
この店に通い続ける理由の一つが”不思議な安心感”である。確かに苦手なお客さんに出くわすことはあれど、決して「嫌だ」と感じることはない。むしろまた会いたいと思えるような、心に残る客との出会いがあるのだ。それは料理やお酒の魅力を超え、趣味や興味の話題を適度な距離感で交わす時間が、何とも心地よいのだ。映画『ユー・ガット・メール』ではないが、偶然この場所で再会するという妙な縁を感じることも。
コース料理になってから、まずは冷たい先付で口を整え、その後に出される温かい先付が、いつも心を惹きつける。中でも茶碗蒸しは、季節ごとにそのベースが変わり、旬の素材で彩られている。そして、その上にかけられる餡はその時々にあわせて変えられており、その絶妙な組み合わせが一品としての完成度を高めている。まるで、時の流れに沿って変化する店と客との関係のように、毎回新たな驚きと喜びを提供してくれるのだ。この店で過ごす時間は、ただの食事以上に、人生の一部を感じさせるものなのかもしれない。
2024/09/26 更新
2024/09 訪問
変わらぬ味と時折の待ち時間
開業して17年だろうか?中津・豊崎の界隈では、もはや老舗と呼ばれる存在となっている。味はいつも安定していて、まさに私の好みだ。何度か通ううちに、好きなものや苦手なものにまで配慮してメニューを構成してくれる、その細やかさには感心するばかりである。定番メニューも不定期ではあるが更新され、訪れるたびに新しい発見があるのだから、通う価値があると言えるだろう。
ただ、一つだけ残念な点を挙げるとすれば、ホールのスタッフがいない時に、お酒の提供に時間がかかることだろうか。サービス面での改善は期待したいところだが、この店の良さが大きく損なわれるわけではない。
一枚目の写真は、初回か久しぶりに来店された方用の冷たい先付の旨出汁ゼリー 雲丹イクラのせ
。二枚目の写真は間を開けずに来店された方向けの冷たい先付のお寿司。
これらの料理には、時間の経過とともに店の進化を感じさせる不思議な力がある。
2024/09/20 更新
和食における「箸休め」という言葉は、一般に主菜や副菜の間に供される小さな一品を指す。これによって食べる側の口を整え、次の料理への準備をするというのがその役割だ。だが、「沁ゆうき」の箸休めは、そんな控えめな存在感に甘んじることなく、堂々たる一皿として主張してくる。
たとえば、コロッケや子蓮根の揚げ物。箸休めと呼ぶには豪快で、外側はサクッと軽く、中はほっくりとした温かさが広がる。これを前にして箸を休めるどころか、むしろ次の一口を求める手が止まらない。一方で、干したえんがわや鰻の肝焼きは、噛むほどに旨味が深まり、箸を持つ手を休ませても杯が進む。まさに「箸休め」が新たなステージを獲得している。
そして、新作として登場しながら、すでに定番化しているという「サザエの茸焼き」も見逃せない。殻の中に詰められたサザエの身と数種類の茸、さらに仕上げにトリュフオイルが垂らされる。焼き物?焚き物?いずれにせよ、その豊かな香りと味わいは、食事の流れに確かなアクセントをもたらしてくれる。
控えめに見えて実は主役級。これが「沁ゆうき」の箸休めが持つ奥深さであり、和食の新たな可能性を示すものなのだ。