69回
2025/07 訪問
もう会えない二本
暦の上では、七夕は過ぎていた。
だが「沁ゆうき」のカウンターには、不思議とその気配が残っていた。
友人の昇進祝いにかこつけた一献の夜。
乾杯の余韻が落ち着いたころ、店主が何気なく切り出す。
「DATE SEVEN、今年のが最後の一杯ずつ残ってるんですけど──どうされます?」
訊かれた瞬間に、すでに答えは決まっていた。
まずは“海”──浦霞。凛とした輪郭のなかに、微かな穏やかさが潜んでいる。祝いの席にふさわしい、控えめな華やかさ。
次に“山”──伯楽星。白葡萄を思わせる香がふわりと立ち上り、こちらの言葉をひとつ飲み込ませる。
今年も二本構成。七夕にちなんだ季節酒。
──もっとも、仙台の七夕は八月だったよな。そんな話をしながら、グラスの底をのぞき込む。
二度とは会えない最後の一杯を、ここで迎えられたということ。
それだけで、今年の“七夕”は完結していたのかもしれない。
2025/07/17 更新
2025/07 訪問
職人の手仕事
「スープが御馳走です」──そのひと言を、店主は初めての客にだけささやく。
常連となった今は、もう口にはされないが、むしろその沈黙が一層、あの言葉の重みを引き立てるようにも思える。
「河内鴨のはりはり鍋」。鴨の脂が、音もなく出汁に溶けてゆく。湯気の向こうに浮かぶのは、水菜の緑と、名もなきつくね。だが、鍋の奥行きを決定づけているのは、その脇役である鴨のつくねに他ならない。出汁を吸い、旨味をにじませ、何事もなかったかのように消えていく。
たいていの夜は、白米の隣に立つ濃い味の一皿を選ぶ。それが習慣であり、安心でもある。だが、この鍋には、不意に心を預けたくなる瞬間がある。
主張しない、けれど確かにそこにある。職人の手が、そこにある。沁ゆうきの鍋は、沈黙の中で語る料理なのだ。
2025/07/23 更新
2025/06 訪問
串揚げ屋ゆうき
串揚げ屋ゆうき──そんな呼び方がふさわしい夜がある。
予約が少ないときや、頻繁に訪れる私に出すメニューに迷ったとき、そっと現れる裏メニュー。それが、沁ゆうきの串揚げだ。去年も、ちょうどこの時期だった。六月の風に背を押されて訪ねた夜、思いがけず出会った記憶がある。
この日も、先付をいくつかつまんだあとは、串が一本ずつ、静かにカウンターを渡ってくる。小ぶりで、軽やかで、香ばしい。どれもが主張しすぎず、それでいて忘れられない。気づけば、酒だけがすいすいと進んでいく。
「〆、どうされます?」と問われたときには、もう遅かった。お鮨も、カレーも、選べたはずなのに──腹は、とうに満たされていたのだ。
結局、串揚げのせいじゃない。酒の導線が、あまりに巧みすぎるのだ。飲ませてしまう料理。食べさせすぎない優しさ。その匙加減こそ、「沁ゆうき」らしさなのだと思う。
2025/06/26 更新
2025/06 訪問
通常利用外口コミ
この口コミは試食会・プレオープン・レセプション利用など、通常とは異なるサービス利用による口コミです。
笑ってくれていないかな?
イベントの打ち上げは「沁ゆうき」で。お弁当とおにぎり、それぞれ40食を作りきった彼の姿を見れば、もう料理を作れないのも、むしろ当然のことに思えた。
カウンターに置かれたのは、中川自然坊さんの俎板皿。ふだんはお造りの盛り合わせが、しんと身を寄せ合って並ぶその器に──この夜は、するめ、チータラ、ポテチたちが陣取っている。
まるで気の抜けた自宅飲み。でも、その器に乗った瞬間、どこかピリッとした空気が立ちのぼる。
ふとよぎる、「自然坊さん、怒ってないかな?」という思い。
けれどすぐに、きっとあの笑顔で「そんな使い方も、面白いよ」と言ってくれている気がした。
器は料理を選ぶ。けれど、選ばれるのは、空気や間合いも同じだ。そう思わせてくれる、静かな夜だった。
2025/06/26 更新
2025/06 訪問
これを、こう
すき焼きの〆に白飯を──そんなこと、家ならあたりまえだ。割下の甘辛が染み込んだご飯に、溶き卵をひとたらし。あとはもう、理屈ではなく快楽の領域。
だが、舞台が「沁ゆうき」となると話は別だった。器も火入れも丁寧すぎて、そこに茶碗を差し出す行為が、どこか背徳に思えたのだ。
それでも──牛や鴨のすき焼きをメインに選んだ夜には、ためらいはない。ご飯と味噌汁のセットを合わせて頼む。ご飯にタレをかけ、卵を絡める。正攻法ではない。けれど、それが正解であることは、自分の舌が知っている。
最近では、お店の人も心得たもので、何も聞かずにご飯を出してくれる。その無言の了解が、ちょっとだけ嬉しい。
礼を忘れずに、わがままを通す。
そんな夜が、沁ゆうきには、よく似合う。
2025/07/03 更新
2025/06 訪問
夏の手前の白
たけのこの名残を追う間もなく、春と夏のあわいにさしかかるこの時期は、食材にとって“端境”の季節だとも言われている。けれど、そんな時にふいに出会う“旬”こそ、記憶に深く刻まれるのかもしれない。たとえば──河豚の白子。
河豚というと、どうしても冬の鍋を思い浮かべるが、白子の旬はむしろ今。5月から6月にかけて、旨味と滑らかさの頂点を迎える。
ある日は、昆布焼きで。香ばしく焼かれた昆布の上に、白子がとろんと横たわっている。箸を入れた瞬間に立ち上るのは、昆布の深い香り。口に含めば、ねっとりとした白子の甘みが舌をゆっくり包んでいく。
別の日には、天ぷらで。薄衣にくるまれた白子が、熱を受けてわずかに膨らみ、ひと口かじると、熱々の中からとろりとした旨味が流れ出す。衣のかすかな香ばしさが、白子の濃厚さを引き立ててくれる。
まもなく夏という季節に向かう中で、こうして立ち止まるように供される白子は、少し遅れてやってきた春の忘れ物のようでもある。そして、ふと思う。旬というのは、出番を待っていたかのように、静かに、だが確かに姿を現すのだと。
2025/06/19 更新
2025/05 訪問
記憶をすする
その夜、ふいに差し出された器の中で、長いもが細く、白く、まるでそうめんのよう。
冷たい出汁を湛えたその姿は、まさに「長いもそうめん」。口にすれば、喉をすべり落ちたあとに、ひんやりとした余韻が静かに残る──湿気を帯び始めた季節に、心地よい清涼をもたらしてくれる一品だ。
この料理が、かつてアラカルト営業時代の定番だったことは知っていた。だが、それをいま目の前で再び味わうと、あらためて驚かされる。
「今思えば、よくやってました。」
そうこぼした大将の声には、少しだけ呆れと、そして誇らしさが滲んでいた。
もちろん、記憶の中の味とはどこか違う。出汁の澄み方も、長いもの歯ざわりも、少しだけ研ぎ澄まされている気がした。
懐かしさと、技術の更新と。あの頃とはまた違う輪郭で、いまの沁ゆうきがそこにあった。
2025/06/12 更新
2025/05 訪問
伝えた言葉が皿にのる
その魚を、私は昔から好んでいた。
鯵──どこか“安い魚”の代名詞のように扱われがちなこの魚に、私は妙に惹かれていた。
理由はよくわからない。ただ、好きだった。それだけだ。
沁ゆうきのような店に通い始めて、ふと口にした。「鯵が好きなんです」と。
それはほんの一言だった。が、大将はその言葉を、いつまでも覚えていたらしい。
以来、良い鯵が入った日には、コースの始まる前にこう告げられることがある。
「今日、鯵が出ます」と。
この夜、出されたのは、なめろうとアジフライ。
前者は香味野菜と味噌が練られ、鯵の身にぴたりと寄り添っている。
後者は、衣はさくりと軽く、内にはふっくらと湯気をたたえた白身。
どちらも、鯵が「ただの青魚」ではないことを教えてくれた。
この店では、鯵は単なる素材ではない。
誰かの記憶に導かれて、その日の食卓に現れる。
“好き”と告げたその瞬間から、ひと皿が生まれることもあるのだ。
2025/06/05 更新
2025/05 訪問
姿なき主客とのご相伴 ~その2~
今年の筍は、少しだけ長く楽しませてくれている。沁ゆうきの「わか竹煮」も、そんな春の余白に現れた一椀だった。
わかめと筍。若竹ではなく、あえて“わか竹”と呼ぶべき素朴な取り合わせ。ある夜、常連のひとりがそれを所望したという。けれど、そのとき店にわかめはなく、約束だけが静かに残った。
その日のために用意されたわかめ。だが、肝心の主客はまだ姿を見せない。代わりに、その一椀が私の前に置かれた。思いがけず、わか竹煮をいただくことになる。
やわらかな筍に、控えめな磯の香りが添う。出汁の輪郭は柔らかく、舌に触れるたび、春がほどけていくようだった。
常連の声が形となり、それを別の誰かが受け取る。この店では、そんな“引き継がれる一皿”が、ごく自然に存在している。
おそらく今季最後のわか竹煮。姿なき主客に導かれるようにして味わったその椀に、私は静かに春を送った。
2025/05/22 更新
2025/05 訪問
地図にない三ツ星
ミシュランの星。世界中のレストランを評価する、その象徴だ。中でも三ツ星は、「そのために旅をする価値がある」店にだけ与えられる特別な星。わざわざ時間と手間をかけてでも訪れたい、そう思わせる場所に与えられる勲章だ。
もし、私にとっての三ツ星はどこかと聞かれたら、少しだけ照れながら、それでも迷わず沁ゆうきの名を挙げると思う。月に一度、大阪への出張がある。そのたび、週末の夜はこの店のカウンターで終えるのが習慣になっている。
でも、それだけじゃない。ときには仕事とは無関係に、ただこの店の一皿のためだけに、大阪まで戻ることもある。誰かに説明するのは難しいが、それが自然になっている。
大将の静かな声、しみじみとした料理、手になじむ器。どれも派手ではないが、確かに私の中の日常を支えてくれる存在だ。ここに来れば、またいつもの自分に戻れる気がする。
ミシュランの星はない。けれど、私の地図では、この店が「三ツ星」なのだ。今日もその一皿に迎えられて、大阪の夜が静かに始まる。
2025/05/15 更新
2025/04 訪問
旬を名に刻むもの
子どもの頃は、筍があまり得意ではなかった。土のような香りと、どこか渋みを含んだ味が、幼い舌には少し重たかったのだ。
その印象が変わったのは、新大阪に勤めていた頃。仕事帰りによく立ち寄った和食店で供された筍料理は、やわらかくて澄んだ味わいだった。ていねいな下ごしらえが施されていることが、ひと口で伝わってきた。
いまでは、沁ゆうきの春の献立に筍が登場するのを心待ちにしている。今年は特に「筍ごはん」の注文が多かったと聞く。炊きたての香りが立ちのぼり、淡く瑞々しい食感がごはんと寄り添う。そのやさしい味に、自然と箸が進んだ。
「筍」という漢字は「旬で育つ」と書くが、むしろ「旬しか食べられない」と言い換えたくなるほど、その美味しさは一瞬のきらめきだ。
今年は、ワカ筍煮と筍ごはんで、その旬をしっかり堪能できた。春は、短いからこそ、いい。
2025/05/05 更新
2025/04 訪問
コロッケをどうぞ
空豆の季節になると、沁ゆうきの料理にも春の緑がふいに顔をのぞかせる。以前は焼き空豆が、先付や箸休めとしてさりげなく添えられていた。だが最近は、少し趣向が変わってきたようだ。
この日のコースに現れたのは、“空豆のコロッケ”。その響きだけなら一瞬肩の力が抜けそうだが、話を聞けば、その一皿には予想以上の手間がかかっていた。
まず、空豆を茹でる。次に、そのゆで汁を捨てずに使い、さらに空豆を湯がく。薄皮は一つひとつ丁寧に剥かれ、すりつぶされた中身だけで、衣をまとわせて揚げられる。つまり、素材の100%どころか、茹で汁まで含めれば120%空豆のコロッケ、というわけだ。
衣の中から立ちのぼる春の香り。ふんわりとした甘みとともに、空豆の素朴さがしっかりと伝わってくる。
そう長くは出てこない。けれど、それがいい。あの手間を思えば、空豆の季節が短いのは、むしろ救いかもしれない。
「コロッケをどうぞ」と笑って差し出されたその一皿には、沁ゆうきらしい静かな茶目っ気と、料理人の矜持が詰まっていた。春は、こんなところにも宿っている。
2025/05/01 更新
2025/04 訪問
夜の余白にモルトを添えて
沁ゆうきで飲むのは、たいてい日本酒だ。料理に寄り添い、季節を映し、静かに杯が進む。それがこの店での、ごく自然な過ごし方になっている。時折、最後に焼酎のソーダ割で喉を整える夜もある。それはそれで、悪くない。
けれど、たまに――食後の余韻をもう少しだけ味わっていたい夜がある。そんなとき、自然とグラスに手が伸びるのはスコッチウイスキーだ。カウンター越しに大将やスタッフと他愛ない話を交わしながら、ゆっくりと飲む。モルトの香りは、そんな時間によく似合う。
どうやらアイラ好みの常連がいらっしゃるらしく、棚にはそれらしいボトルが。今夜、選ばれたのはボウモア8年。2000年代の流通品。ラベルを見た瞬間、記憶の奥が少しだけざわめいた。「こんなボトル、あったな」と。
口に含めば、スモーキーな香りが静かに立ち上がり、わずかに潮風を思わせる。強くはない、けれど確かなアイラの輪郭。食事の余韻を損なうことなく、そっと寄り添ってくる。
ただ酒が変わっただけなのに、夜の空気も、心の温度も、少しだけ違って感じられた。たまには――スコッチウイスキーも、いい。
2025/04/24 更新
2025/04 訪問
最後の未踏地 ~納豆との再会~
沁ゆうきの〆は、いつも少し迷う。小さなカレーにご飯セット、さらりと喉を通る麺類、そして定番のマグロ細巻き。どれも食後の余韻を壊さない絶妙な加減で、最後の一品としてよくできている。
そんな中で、ひとつだけ手をつけたことがなかったものがある。納豆巻だ。理由は明快で、ただ単に納豆が苦手だった。香り、粘り、味の輪郭――どれもこれもが敬遠対象だったのだ。
だがこの日、転勤が決まり、しばらくは足が遠のくかもしれないという現実が、ほんの少しだけ背中を押した。苦手なものに手を伸ばすなら、今がその時だろうと。
供された納豆巻には、谷町納豆が使われていた。香りは抑えめ、シャリと海苔との相性もよく、思っていた以上にすんなりと口に入った。苦手だったはずの一品に、思わず「これはこれであり」と思う自分がいた。
これで沁ゆうきの〆メニューは、一通り制覇したことになる。通う間隔が少し空いたとしても、この店にはまた戻ってくる。その時はきっと、納豆巻とも自然に再会している気がする。
2025/04/12 更新
2025/04 訪問
姿なき主客とのご相伴
沁ゆうきには、特定の常連のためだけに現れる“裏メニュー”がある。いわば、その人のための一皿。私にとってのなめろうのように、長く通ううちに、それぞれのこだわりが形になるのだろう。
「豆ごはん」も、そんな一品のひとつ。春の限られた時期にしか供されず、しかもある常連の予約が入った週にだけ、ひっそりと仕込まれる。
私が店を訪れたのは、ちょうどその週だった。しかも、この日は二人連れ。豆ごはんは一人で食べるには少々多すぎるが、ふたりならちょうどよい。頼んだわけではない。けれど、ごく自然に、その一椀が目の前に置かれた。
湯気とともに立ちのぼる青豆の香り。塩は控えめで、むしろ豆と米の味わいが際立つ。ひと口ごとに春が広がるような、そんな味だった。
偶然とは思えない、静かな導きのようなもの。沁ゆうきでは、ときにこんな一皿が、ごく自然に供されることがある。まさに“ちょっと変わった御相伴”だった。
2025/04/11 更新
2025/03 訪問
春を名乗る冬の魚
沁ゆうきのコースは、季節の気配を言葉にせずとも伝えてくる。この日もそうだった。いつものようにおまかせの流れに身を委ねていたところに、ふと供されたのが――鰆の西京焼き。
香ばしく焼かれた皮の下には、脂ののった身がしっとりと隠れていて、西京味噌の甘さとともに口の中にやわらかく広がっていく。冬の終わり、春の気配が混じり始めた頃にふさわしい、穏やかで余韻のある一皿だった。
そのとき、不意に「鰆」の字が頭に浮かんだ。魚偏に春――言われてみれば、随分と詩的な漢字だ。春先、産卵のために沿岸に姿を現すことから「春を告げる魚」とされるが、実際に美味なのは、脂がのる冬の時期。名と旬が少しずれているという、この微妙な距離感が妙に心地よい。
書道をたしなむ身としては、こうした言葉と現実の“ズレ”や“余白”にこそ、漢字の面白さを感じることがある。
この夜の鰆もまた、メニューに名はなくとも、文字以上にその存在をしっかりと語っていた。口に残る味と、心に浮かんだ一文字とが、静かに響き合っていたように思う。
2025/03/28 更新
2025/03 訪問
初めての鍋 ~河豚の余韻~
沁ゆうきに通うようになって、いったいどれほどの時が流れただろう。数えることなどしていないが、来店した回数は100や200ではきかないはずだ。季節が巡るたび、料理が移り変わるたびに、この店の味を静かに噛みしめてきた。
それでも、この日は特別だった。これまで何度も通い続けてきた沁ゆうきで、鍋のコースを頼むのは初めてだったのだ。 何度も目にし、隣の席で供される様子を眺めたことはあった。それでも、自分が味わう機会はなぜか訪れなかった。そして迎えた今シーズン最後の河豚の日、ようやくその席につくことになった。
まずはてっさ。薄く透ける身が、噛むほどに淡く、そして確かに広がる。続く唐揚げは、香ばしさの奥にふぐ特有の弾力を秘め、酒を誘う。てっちりでは、骨のまわりに宿る旨みを惜しむように味わい、最後に雑炊が、すべてをやさしく包み込んだ。出汁の沁み渡るひと口が、まさに季節の終わりを告げていた。
沁ゆうきの河豚は、派手さではなく、確かさで記憶に残る。淡いが、芯のある味。春の足音が聞こえ始めるこの時期に、冬の名残を惜しむ最後のごちそう。
河豚の締め日に、河豚で〆た――そんな余韻に浸りながら、また一つ、この店との記憶が深まっていくのを感じた。
2025/03/21 更新
2025/03 訪問
懐かしき皿の再訪
沁ゆうきでは、新しい料理が次々と生まれ、メニューの流れも自然と変わっていく。定番だったはずの一皿も、気づけば姿を消し、いつの間にか「懐かしい味」へと変わってしまうこともある。そんな中、この日は久しぶりに、かつての名脇役たちがカウンターに並んだ。
ひとつは「まながつおの西京焼き」。西京焼き自体は今も提供されているが、まながつおを使ったものが登場するのは久方ぶりだ。「カツオ」と名がついているが、その実、鰹とはまったくの別物。しっとりとした身に、じんわりとにじむ脂。それを西京味噌の甘みが優しく包み込む。懐かしさとともに、やはりこの魚の西京焼きは格別だと改めて実感する。
もうひとつは「マカロニグラタン」。沁ゆうきでは、これがアワビの殻に入っているが、アワビは入っていないという決まり文句とともに供される。ベシャメルソースのコク、焼き目の香ばしさ、シンプルながらも記憶に残る味わい。かつての定番が再び目の前に現れたことに、どこかほっとする。
移り変わるメニューのなかで、ふと巡り戻る一皿。その夜は、沁ゆうきが変わらず沁ゆうきであることを感じさせる、そんな時間だった。
2025/03/17 更新
2025/03 訪問
巡る季節の名残と兆し
沁ゆうきの料理には、季節の移ろいがそっと映し出される。この日もまた、旬のはじまりと終わりが、静かに一皿ずつ語りかけてきた。
先付には、うすいえんどうの餡をまとった温かい一品が供された。春の兆しを含んだ豆の甘みが、口の中にふわりと広がる。冬の寒さが遠ざかり、柔らかな陽射しが差し込むような味わいだ。ホタルイカは天ぷらに仕立てられ、軽やかな衣の中に閉じ込められたほのかな苦みと凝縮された旨みが、春の訪れを確かに告げている。
一方で、終わりゆく旬もまた、皿の上にその名残をとどめていた。河豚は先付の皮の湯引きとして現れ、コリコリとした食感と淡い旨みが、冬の余韻を静かに感じさせる。そして、選んだメインは河豚の唐揚げ。噛むほどに滲み出る旨み、しっかりとした身の弾力――それは、まもなく終わる冬の味覚が残す最後の余韻のようだった。
季節は巡り、食材は姿を変えながら、その味わいの記憶を静かに残して去っていく。そしてまた、新たな旬が訪れる。その流れの美しさを、沁ゆうきの料理はそっと教えてくれるのだ。
2025/03/10 更新
虎の魚と書いて──オコゼ。正確には「鬼虎魚(オニオコゼ)」。
この国では、見た目と名前の距離感が妙に近いことがある。たとえば鬼灯、たとえば虎魚。ことオコゼに至っては、名は体を表しすぎている。
実際、背鰭に毒を宿し、岩場に紛れて獲物を待つ姿は、もはや魚というより伏兵。触れれば痛いが、逃せば惜しい。つまり、そういう魚だ。
「沁ゆうき」でそれに出会ったのは、ちょうど季節が夏のはしり。
まずは薄造り。紅葉おろしとポン酢という定番にして唯一の解。見た目のいかつさとは裏腹に、舌の上には、やさしい。あまりにやさしい甘みが、ふっと残る。
そして唐揚げ。供されるのは胸鰭、頭はない。それでも、かぶりつくときの高揚は抑えきれない。骨ぎしの身に歯を立てる。熱と旨味と、ほんの少しの快楽。
「虎」の字がふさわしいのは、見た目のせいか、それともこちらの欲のせいか──。
どちらにせよ、手なずけるより、ひと口のうちに消えていくのが似合っている。