79回
2025/09 訪問
いちじくの記憶
記憶を遡れば、いちじくとの最初の出会いはバーのカウンターだった。
琥珀色の酒に寄り添うように置かれたドライフルーツ。
ねっとりとした甘みと、かすかな酸味。
それが強いアルコールをやわらかく包み込んでくれたことを、今も覚えている。
やがて季節が巡り、生のいちじくにも出会う。
単体で食べることは少ないが、和食の白和えにひっそりと紛れ込む。
淡い甘みと瑞々しい食感が、胡麻や豆腐のまろやかさに寄り添い、静かに調和していた。
そしてこの夜、沁ゆうきで供されたのは、焼き魚の横に豆腐ソースをまとったいちじく。
胡麻の風味が魚の塩気をやさしく引き立て、盃を手にするたび、過去の記憶がふっと甦る。
料理の合間に、いちじくの話をしていたからだろうか。
最後に出てきたのは──ドン、と一皿のいちじく。
その存在感の前では、言葉は要らなかった。
ただ頷きながら、古い記憶の隣に、新しい記憶が静かに添えられていった。
2025/09/26 更新
2025/09 訪問
未完の完成
何かを形にしようとするとき、頭の中には「完成形」という像がある。
けれど、試作を重ねるたびにその輪郭は揺らぎ、気づけば手の届かぬまま霞んでいく。
では、どこで試作を止めるのか──。
実はそれこそが、一番難しい問題なのだ。
この夜、私に出されたのは四作目。
もっと前に、あるいは他の客には、さらに多くの試作が並んでいたのかもしれない。
皿の底には香味野菜がしっとりと敷かれ、その上に赤く艶めく魚。
鰹か、あるいは鮪か。
さらに春巻きの皮がカリリと添えられ、三味が口の中でひとつになる。
脂と酸味と青みとが、不思議な均衡を保ちながら。
「これで一応の完成かな」
そんな大将の声が聞こえる気がした。
私に出されたのは、数ある試作のひとつにすぎない。
だが、その形は確かに完成の一歩手前まで辿りついていた。
もっとも、大将のことだ。
また何か思いつけば、すぐに改造は始まるだろう。
そう予感しながら口にした一皿は、やはり「一応の完成形」と呼ぶにふさわしかった。
2025/09/18 更新
2025/09 訪問
ソースが選ぶ夜 ~封じられたハンバーグの行方~
ハンバーグを揚げたら、それはメンチカツになるのだろうか。
そんな素朴な問いかけから始まった試みは、思いのほか早く結末を迎えた。
最終的にメニューに残ったのは、ハンバーグではなくメンチカツだったのである。
理由は単純だ。
カリッと揚がった衣がデミグラスソースをよく絡め、口に運べばサクッとした食感のあとに、肉の旨みとソースのコクが一体となって広がる。
焼き目の香ばしさを誇るハンバーグも悪くはない。
だが、ソースとの相性を考えるなら、やはり衣をまとったメンチカツに軍配が上がる。
しかも厨房の段取りにおいても、焼くより揚げる方が自然に馴染んだ。
その夜、隣の席の客がぽつりとつぶやいた。
「結局、残ったのはソースに選ばれたほうってことだね」
なるほど。
勝者は料理そのものではなく、デミソースが導いた相棒の方だったのかもしれない。
2025/09/12 更新
2025/08 訪問
三人揃えば、まぐろ三兄弟
子供のころ、鮪を食べることは少なかった。
両親が好まなかったからだ。
だから鮪の魅力を知ったのは、大人になってから。
今はもう無い、あのバーの一階にあった寿司屋。
そこで初めて、赤身の凛とした酸味に目を開かされた。
沁ゆうきで出会うのは、また別の顔を持つ鮪だ。
〆に供されるネギとろ巻は、ほどける脂をシャリがやさしく受け止め、すっと消える。
トロたく巻は一転して沢庵の歯ざわりが加わり、濃厚と軽快が同居する。
そして、ごく限られた日にだけ現れる鉄火巻。
赤身の潔さがまっすぐに響き、三兄弟の長兄らしい風格を放つ。
もし三人で訪れ、それぞれが一巻ずつを頼み、三人でシェアすれば――。
一晩にして三兄弟を制覇できる。
そんな夜は偶然ではなく、巡り合わせの妙。
誰にとっても忘れがたい祝祭となる。
2025/09/04 更新
2025/08 訪問
封印される前に
きっかけは、一皿のデミグラスソースだったらしい。
どこかで出会ったその深い味わいに触発されて、大将は思った。
――このソースにふさわしい料理を作りたい、と。
まず試みられたのは、やはり定番のハンバーグ。
皿の上で立ちのぼる湯気に、濃厚なソースをまとわせる。
添える卵は目玉焼きか、それとも半熟卵か。
いや、昔ながらの洋食屋を思わせるカットしたゆで卵もありではないか。
そんな議論だけで、一夜が過ぎてしまうほどだった。
だが結局、メニューに残ったのはメンチカツ。
デミソースを受け止めるのは、肉の塊ではなく、衣の力強さだと判断されたのだろう。
となれば、このハンバーグはしばらく封印される運命にある。
私が口にしたのは、その封印前のほんのひととき。
偶然ではなく、通い続けてきた者だけが与えられる一皿。
――常連の特権とは、きっとこういう瞬間を指すのだ。
2025/09/03 更新
2025/08 訪問
夏の粒々
夏という季節が来るたびに、どうしても思い出してしまう食材がある。
トウモロコシ──甘くて、香ばしくて、そしてどこか懐かしい。 屋台の焼きとうもろこしにかぶりつくのも、もちろん嫌いじゃない。けれど、料理人の手にかかると、この夏の実りはまったく別の表情を見せるのだと、この夜あらためて知った。
たとえば、温かい先付。茶碗蒸しの上にとろりとかかった出汁餡。その中から、つぶつぶのトウモロコシが顔を出す。出汁の香りとともに、ふわりとした甘みが舌に触れ、ひと口目から季節の輪郭がゆっくりと立ち上がってくる。
揚げ物は、豆のコロッケ。断面に、黄色い粒がいくつも覗いていた。豆の香りに包まれながらも、噛むたびにじんわりと甘みを広げていくトウモロコシ。主張は控えめでも、確かな存在感を放っていた。
〆には、とうもろこしごはん。湯気の中にふわりと浮かぶ黄色の粒。蓋を開けた瞬間、ひと夏ぶんの陽差しが、茶碗の中に射し込んだようだった。塩とほんの少しのバターが、その甘みを引き出して、まるで計算されたかのような余韻を残す。
思えばこの夜は、「トウモロコシづくし」というほどではなかった。けれど、どの皿にも、その甘みと気配が静かに息づいていた。
名脇役?──いや、違う。 和食の世界でも、主役を張れる。そう思わせる、確かな一夜だった。
2025/08/20 更新
2025/08 訪問
試作の脇道
沁ゆうきの大将には、時折、突発的に“中華の風”が吹き込むことがあるらしい。以前は海老チリ。あの完成度を前にしては、常連もただ黙って箸を伸ばすしかなかった。だが今回、その風が向かった先は──春巻き、だった。
メニューにはまだ載っていない。けれど、裏では着々と試作が進んでいるという。そしてある夜、ふらりと出てきたのは、その副産物だった。余った春巻きの皮をカリリと揚げ、その上にたたきの魚と香味野菜。ただそれだけの即興。けれど、その皮の上で、味がひとつにまとまっていた。
本来は鰹だが、私の好みを知ってか、まぐろで供された。
そもそもこれは、春巻きという“本道”の試作から、ふとこぼれ落ちた“脇道”の料理にすぎない。けれど、沁ゆうきという店は、そうした寄り道の先で、思わぬ定番を見つけてきた場所でもある。
完成へ向かう道の途中で、思いつきで踏み込んだ脇道。だが、その一歩の先にしかない景色が、たしかにある。料理とは、そういうものかもしれない。
2025/08/07 更新
2025/07 訪問
封じられた記憶、すくい上げる旨味
この店で供される「旨出汁ゼリー」を、初めて目にしたときのことを、いまでもよく覚えている。透きとおるゼリーの中に、生湯葉がたゆたい、その上に雲丹といくらが彩りを添える──まるで一皿の中に季節と贅を封じ込めたような、そんな佇まいだった。
だが、これは突然生まれた料理ではない。聞けば、大将が修行していた店に、原型ともいえる夏の一品があったという。焼き茄子とオクラを使った、涼味を極めた旨出汁ゼリー。喉をすべり落ちるその味は、修業時代の記憶とともに、いまも大将の中に息づいている。
「沁ゆうき」のゼリーは、その記憶に、湯葉のやわらかさと、雲丹・いくらの華やかさを重ねたものだ。ひと口ごとに静かに、しかし確かに伝わってくるのは、原点を忘れず、けれどそこに留まらないという意志。受け継ぎ、変え、磨き上げる──それは、料理における進化の形であり、店の姿勢そのものでもあるのだろう。
過去があるから、いまがある。そして、“いま”が、また誰かの原点になる。そんな循環を、この小さなゼリーが静かに物語っている気がした。
2025/07/31 更新
2025/07 訪問
コロッケをどうぞ、ふたたび
コロッケに季節を感じるなんて、少し前まで思いもしなかった。
そら豆のコロッケに出会ったのは、春の名残がまだ風に残る頃。衣の中に閉じ込められた香りが、青く、ほの甘く──あの一皿には、たしかに季節が息づいていた。
そして今夜、ふたたび。
供されたのは「ぼんちゃ豆のコロッケ」。山形・鶴岡の在来種と聞く。箸を入れれば、衣の裂け目から立ちのぼる湯気。その瞬間、鼻腔を射抜くのは、濃い緑の香り。豆でありながら、まるで若葉のようでもある。むしろ、山の土をまとった草の気配さえ感じる。
舌の上では、ほっくりとした餡が静かにほどける。甘みは控えめで、香りの奥に沈んでいる。そう、香りが主役なのだ。一口ごとに鼻を通り、静かに余韻を残していく。
素材を包み、形を変えるのがコロッケだとしても──この店では、素材が“語りかけてくる”。衣の向こうで、確かに何かが息づいている。
だから、やっぱりこう言いたくなる。
コロッケをどうぞ──ふたたび。
2025/07/29 更新
2025/07 訪問
その名にふさわしく
虎の魚と書いて──オコゼ。正確には「鬼虎魚(オニオコゼ)」。
この国では、見た目と名前の距離感が妙に近いことがある。たとえば鬼灯、たとえば虎魚。ことオコゼに至っては、名は体を表しすぎている。
実際、背鰭に毒を宿し、岩場に紛れて獲物を待つ姿は、もはや魚というより伏兵。触れれば痛いが、逃せば惜しい。つまり、そういう魚だ。
「沁ゆうき」でそれに出会ったのは、ちょうど季節が夏のはしり。
まずは薄造り。紅葉おろしとポン酢という定番にして唯一の解。見た目のいかつさとは裏腹に、舌の上には、やさしい。あまりにやさしい甘みが、ふっと残る。
そして唐揚げ。供されるのは胸鰭、頭はない。それでも、かぶりつくときの高揚は抑えきれない。骨ぎしの身に歯を立てる。熱と旨味と、ほんの少しの快楽。
「虎」の字がふさわしいのは、見た目のせいか、それともこちらの欲のせいか──。
どちらにせよ、手なずけるより、ひと口のうちに消えていくのが似合っている。
2025/07/24 更新
2025/07 訪問
もう会えない二本
暦の上では、七夕は過ぎていた。
だが「沁ゆうき」のカウンターには、不思議とその気配が残っていた。
友人の昇進祝いにかこつけた一献の夜。
乾杯の余韻が落ち着いたころ、店主が何気なく切り出す。
「DATE SEVEN、今年のが最後の一杯ずつ残ってるんですけど──どうされます?」
訊かれた瞬間に、すでに答えは決まっていた。
まずは“海”──浦霞。凛とした輪郭のなかに、微かな穏やかさが潜んでいる。祝いの席にふさわしい、控えめな華やかさ。
次に“山”──伯楽星。白葡萄を思わせる香がふわりと立ち上り、こちらの言葉をひとつ飲み込ませる。
今年も二本構成。七夕にちなんだ季節酒。
──もっとも、仙台の七夕は八月だったよな。そんな話をしながら、グラスの底をのぞき込む。
二度とは会えない最後の一杯を、ここで迎えられたということ。
それだけで、今年の“七夕”は完結していたのかもしれない。
2025/07/17 更新
2025/07 訪問
職人の手仕事
「スープが御馳走です」──そのひと言を、店主は初めての客にだけささやく。
常連となった今は、もう口にはされないが、むしろその沈黙が一層、あの言葉の重みを引き立てるようにも思える。
「河内鴨のはりはり鍋」。鴨の脂が、音もなく出汁に溶けてゆく。湯気の向こうに浮かぶのは、水菜の緑と、名もなきつくね。だが、鍋の奥行きを決定づけているのは、その脇役である鴨のつくねに他ならない。出汁を吸い、旨味をにじませ、何事もなかったかのように消えていく。
たいていの夜は、白米の隣に立つ濃い味の一皿を選ぶ。それが習慣であり、安心でもある。だが、この鍋には、不意に心を預けたくなる瞬間がある。
主張しない、けれど確かにそこにある。職人の手が、そこにある。沁ゆうきの鍋は、沈黙の中で語る料理なのだ。
2025/07/23 更新
2025/06 訪問
串揚げ屋ゆうき
串揚げ屋ゆうき──そんな呼び方がふさわしい夜がある。
予約が少ないときや、頻繁に訪れる私に出すメニューに迷ったとき、そっと現れる裏メニュー。それが、沁ゆうきの串揚げだ。去年も、ちょうどこの時期だった。六月の風に背を押されて訪ねた夜、思いがけず出会った記憶がある。
この日も、先付をいくつかつまんだあとは、串が一本ずつ、静かにカウンターを渡ってくる。小ぶりで、軽やかで、香ばしい。どれもが主張しすぎず、それでいて忘れられない。気づけば、酒だけがすいすいと進んでいく。
「〆、どうされます?」と問われたときには、もう遅かった。お鮨も、カレーも、選べたはずなのに──腹は、とうに満たされていたのだ。
結局、串揚げのせいじゃない。酒の導線が、あまりに巧みすぎるのだ。飲ませてしまう料理。食べさせすぎない優しさ。その匙加減こそ、「沁ゆうき」らしさなのだと思う。
2025/06/26 更新
2025/06 訪問
通常利用外口コミ
この口コミは試食会・プレオープン・レセプション利用など、通常とは異なるサービス利用による口コミです。
笑ってくれていないかな?
イベントの打ち上げは「沁ゆうき」で。お弁当とおにぎり、それぞれ40食を作りきった彼の姿を見れば、もう料理を作れないのも、むしろ当然のことに思えた。
カウンターに置かれたのは、中川自然坊さんの俎板皿。ふだんはお造りの盛り合わせが、しんと身を寄せ合って並ぶその器に──この夜は、するめ、チータラ、ポテチたちが陣取っている。
まるで気の抜けた自宅飲み。でも、その器に乗った瞬間、どこかピリッとした空気が立ちのぼる。
ふとよぎる、「自然坊さん、怒ってないかな?」という思い。
けれどすぐに、きっとあの笑顔で「そんな使い方も、面白いよ」と言ってくれている気がした。
器は料理を選ぶ。けれど、選ばれるのは、空気や間合いも同じだ。そう思わせてくれる、静かな夜だった。
2025/06/26 更新
2025/06 訪問
これを、こう
すき焼きの〆に白飯を──そんなこと、家ならあたりまえだ。割下の甘辛が染み込んだご飯に、溶き卵をひとたらし。あとはもう、理屈ではなく快楽の領域。
だが、舞台が「沁ゆうき」となると話は別だった。器も火入れも丁寧すぎて、そこに茶碗を差し出す行為が、どこか背徳に思えたのだ。
それでも──牛や鴨のすき焼きをメインに選んだ夜には、ためらいはない。ご飯と味噌汁のセットを合わせて頼む。ご飯にタレをかけ、卵を絡める。正攻法ではない。けれど、それが正解であることは、自分の舌が知っている。
最近では、お店の人も心得たもので、何も聞かずにご飯を出してくれる。その無言の了解が、ちょっとだけ嬉しい。
礼を忘れずに、わがままを通す。
そんな夜が、沁ゆうきには、よく似合う。
2025/07/03 更新
2025/06 訪問
夏の手前の白
たけのこの名残を追う間もなく、春と夏のあわいにさしかかるこの時期は、食材にとって“端境”の季節だとも言われている。けれど、そんな時にふいに出会う“旬”こそ、記憶に深く刻まれるのかもしれない。たとえば──河豚の白子。
河豚というと、どうしても冬の鍋を思い浮かべるが、白子の旬はむしろ今。5月から6月にかけて、旨味と滑らかさの頂点を迎える。
ある日は、昆布焼きで。香ばしく焼かれた昆布の上に、白子がとろんと横たわっている。箸を入れた瞬間に立ち上るのは、昆布の深い香り。口に含めば、ねっとりとした白子の甘みが舌をゆっくり包んでいく。
別の日には、天ぷらで。薄衣にくるまれた白子が、熱を受けてわずかに膨らみ、ひと口かじると、熱々の中からとろりとした旨味が流れ出す。衣のかすかな香ばしさが、白子の濃厚さを引き立ててくれる。
まもなく夏という季節に向かう中で、こうして立ち止まるように供される白子は、少し遅れてやってきた春の忘れ物のようでもある。そして、ふと思う。旬というのは、出番を待っていたかのように、静かに、だが確かに姿を現すのだと。
2025/06/19 更新
2025/05 訪問
記憶をすする
その夜、ふいに差し出された器の中で、長いもが細く、白く、まるでそうめんのよう。
冷たい出汁を湛えたその姿は、まさに「長いもそうめん」。口にすれば、喉をすべり落ちたあとに、ひんやりとした余韻が静かに残る──湿気を帯び始めた季節に、心地よい清涼をもたらしてくれる一品だ。
この料理が、かつてアラカルト営業時代の定番だったことは知っていた。だが、それをいま目の前で再び味わうと、あらためて驚かされる。
「今思えば、よくやってました。」
そうこぼした大将の声には、少しだけ呆れと、そして誇らしさが滲んでいた。
もちろん、記憶の中の味とはどこか違う。出汁の澄み方も、長いもの歯ざわりも、少しだけ研ぎ澄まされている気がした。
懐かしさと、技術の更新と。あの頃とはまた違う輪郭で、いまの沁ゆうきがそこにあった。
2025/06/12 更新
2025/05 訪問
伝えた言葉が皿にのる
その魚を、私は昔から好んでいた。
鯵──どこか“安い魚”の代名詞のように扱われがちなこの魚に、私は妙に惹かれていた。
理由はよくわからない。ただ、好きだった。それだけだ。
沁ゆうきのような店に通い始めて、ふと口にした。「鯵が好きなんです」と。
それはほんの一言だった。が、大将はその言葉を、いつまでも覚えていたらしい。
以来、良い鯵が入った日には、コースの始まる前にこう告げられることがある。
「今日、鯵が出ます」と。
この夜、出されたのは、なめろうとアジフライ。
前者は香味野菜と味噌が練られ、鯵の身にぴたりと寄り添っている。
後者は、衣はさくりと軽く、内にはふっくらと湯気をたたえた白身。
どちらも、鯵が「ただの青魚」ではないことを教えてくれた。
この店では、鯵は単なる素材ではない。
誰かの記憶に導かれて、その日の食卓に現れる。
“好き”と告げたその瞬間から、ひと皿が生まれることもあるのだ。
2025/06/05 更新
2025/05 訪問
姿なき主客とのご相伴 ~その2~
今年の筍は、少しだけ長く楽しませてくれている。沁ゆうきの「わか竹煮」も、そんな春の余白に現れた一椀だった。
わかめと筍。若竹ではなく、あえて“わか竹”と呼ぶべき素朴な取り合わせ。ある夜、常連のひとりがそれを所望したという。けれど、そのとき店にわかめはなく、約束だけが静かに残った。
その日のために用意されたわかめ。だが、肝心の主客はまだ姿を見せない。代わりに、その一椀が私の前に置かれた。思いがけず、わか竹煮をいただくことになる。
やわらかな筍に、控えめな磯の香りが添う。出汁の輪郭は柔らかく、舌に触れるたび、春がほどけていくようだった。
常連の声が形となり、それを別の誰かが受け取る。この店では、そんな“引き継がれる一皿”が、ごく自然に存在している。
おそらく今季最後のわか竹煮。姿なき主客に導かれるようにして味わったその椀に、私は静かに春を送った。
2025/05/22 更新
ふと記憶をたどると、「にのま」にあった一品が甦る。
名を「うにとろいくらのちょっと丼」といった。
その名の通り小ぶりで、うに、まぐろ、いくらが散りばめられた、愛らしいちらし寿司。
一口ごとに贅沢さと可笑しみが同居していて、だからこそ心に残ったのだろう。
そしてこの夜、沁ゆうきで供されたのは、その記憶を呼び覚ますような一椀。
ただし今回は“ちょっと”ではない。
器は中川自然坊の作。
飯茶碗にしては小さく、酒器にしては大きい、あの曖昧さをそのまま抱えた器に、
盛られていたのは──にのまの頃よりも少し大振りに仕立てられた丼だった。
うにの濃厚な甘みが舌を覆い、まぐろの旨みが静かに寄り添う。
いくらの弾ける塩気が全体をきりりと引き締め、口の中で調和と変化が繰り返される。
懐かしさとともにいただくその丼は、過ぎ去った時間を呼び戻し、
新しい「丼の記憶」として、器の中に静かに刻まれていた。