174回
2025/11 訪問
蕨の永太にて、塩ラーメンを
蕨の街には、11月の始まり特有の、ちょっとした寂しさと期待が混じったような冷気が漂っていた。季節が角を曲がり、冬へと舵を切りはじめる瞬間の空気だ。まるで、長い物語のページをめくるときの、紙のかすかなざわめきのように。
駅から永太までの道を歩くと、風が頬に触れてくる。その風は、夏と秋の残り香をどこかに置き忘れてきたみたいに、妙に潔く冷たかった。
僕はポケットに手を入れながら、「初冬の風ってやつは、どうしてこんなに真面目なんだろう」と考える。
店に着く前から、その日の“異変”は遠くからでもわかった。列が長い。いつもの開店前の静かな帯が、今日は少し違う。SNSやテレビで紹介されたという話は聞いていたけれど、こうして目の前で見ると、まるで永太という場所が突然ひとつの“季節の現象”になったようにも思えた。
行列の人々は、寒さに備えるように肩をすくめ、ひとりひとりが小さなストーブでも胸に抱えているかのようだった。誰もが温かい何かを求めている。その“何か”が永太の塩ラーメンであるという事実は、ちょっとした救いにも似ている。
僕は列に混ざり、ゆっくりと深呼吸をする。冷たい空気が肺に入って、骨の内側まで響く。そして、いつものようにバッグから角ハイを取り出し、ひと口含む。気温が下がるほど、角ハイの味は不思議とキリッと背筋を伸ばす。まるで氷の入ったグラスが、季節に対して静かに対抗しようとしているみたいだった。
やがて店の扉が開き、匂いが漏れ出す。それは冷たい外気に浮かぶ、ひと筋の灯火のように、温かさと濃度を持って鼻先へ届く。僕はその瞬間、自分が少しだけ正しい場所に立っているような気がした。
店の中では、マスターと奥さんがいつも通りの優しいテンポで動いている。キッチンの中の鍋や丼は、まるでふたりの演奏を支える楽器のようだった。たしかに永太は鍋を振らない店だ。それでも、スープが注がれる音や、麺が泳ぐ湯の気配は、小さな室内を包む“冬の旋律”になっていた。
僕の前にやって来た塩ラーメンは、初冬の街には不釣り合いなほど柔らかい光を放っていた。
白いスープは、冬の朝にカーテン越しに差し込む光のようで、どこか儚さと温もりが同居している。
レンゲを入れて、そっと口に運ぶ。その瞬間、冷たかった体の芯が、ゆっくりとほどけていく。塩の優しさは、まるで言葉を慎重に選ぶ友人みたいで、こちらが何を話しても否定しない。魚介の香りと豚の旨味が、淡い色彩を描きながら舌の上で広がる。麺をすすると、静かだった時間が少しだけ動き始める。
チャーシューは、季節に逆らうように柔らかく、噛むたびにゆっくりとした音楽が流れるような気がした。
気がつけば、外の寒さはどこか遠い出来事のようになっていた。
食べ終えて外に出ると、列はさらに長くなっていた。まるで誰かが見えない糸を引いて、永太に向かって街の人々を丁寧に並べているかのようだった。冷たい風が歩道をなでるたび、行列がひとつの生き物のように小さく揺れた。
僕はその光景をしばらく眺めてから、手をポケットに戻した。初冬の空気は変わらず冷たかったが、胸の奥のどこかに、ゆっくりと灯った温かさが残っていた。
永太の塩ラーメンは、たぶん冬が来るたびに僕の中でひとつの“季節のサイン”になる。空気が冷たくなり、列が伸び、角ハイがキリッとする。そのすべてが揃うと、僕は「ああ、今年も冬が始まるんだ」と静かに実感するのだ。
#永太
2025/12/01 更新
2025/10 訪問
蕨の永太にて、塩ラーメンを
蕨の空気は、もうすっかり秋だった。風の中にほんの少し冷たさが混じっていて、夏の記憶を指先で確かめても、もうそこには何も残っていない。京浜東北線を降りて、いつものように永太へ向かう。歩くたびに、空気の密度が少しずつ変わっていくのがわかる。
店の前には静かな行列。誰も話さない。スマートフォンの画面を見つめる人、腕を組んでぼんやり空を眺める人。みんなそれぞれの小さな物語の中にいて、その一点で偶然交わっている。まるで電車の車両がひとつの駅で並ぶみたいに。
暖簾の向こうから、湯気がふわりと立ち上がる。あれを見ると、なぜか胸の奥が少し温かくなる。僕にとって永太のスープは、どこか懐かしい夢の中の味のようなものだ。どこで覚えたのかも思い出せないけれど、確かに記憶の底にある。
まずは瓶の赤星を頼む。グラスに注いだ瞬間の「コトン」という音が、僕の中で小さなスイッチを入れる。冷たい泡が喉を通り過ぎていくと、頭の中のノイズが少しずつ消えていく。添えられたメンマをつまみながら、僕はこの時間のゆるやかさに身を委ねる。
カウンターの中では、マスターと奥さんが息の合った動きを見せている。言葉は多くないけれど、ふたりの間には音楽のようなリズムがある。油のはねる音や、丼のぶつかる音が、そのメロディーをやさしく包んでいる。
そして、僕の塩ラーメンがやってくる。湯気が立ち上る丼の中に、白いスープが静かに光っている。レンゲでひと口。やさしい塩気が舌の上に広がり、魚介と豚の旨味がゆっくりとほどけていく。強く主張するわけじゃない。むしろ、そっと寄り添うような味だ。まるで誰かが肩に手を置いて「大丈夫」と言ってくれるような。
麺をすすり、チャーシューを噛む。そのたびに、時間が少しだけゆっくりになる。外の風の音、厨房のリズム、そして僕の心拍が、同じテンポで並んでいく。
店を出ると、風が少し冷たくなっていた。空は淡い灰色で、電線の上を小さな鳥がひとつ鳴いた。その瞬間、なぜか僕は、今日という一日がうまく締まったような気がした。
——永太の塩ラーメンは、そんな風に僕の季節を整えてくれる。特別なことは何もないけれど、それがきっと、一番大事なことなんだと思う。
#永太
2025/11/02 更新
2025/09 訪問
蕨の永太にて、塩ラーメンを
9月の空は、まだ夏の輪郭を残していた。秋の入り口というには、空気がほんの少し湿っていて、光が名残惜しそうに地面にまとわりつく。僕は蕨駅を降り、いつもの「永太」へと歩いた。看板が見えてくると、胸の奥で何かがカチリと音を立てて、正しい位置に戻る。この感覚を味わうために、僕はたぶんここに通っているのだ。
店に入ると、湯気とともに豚と魚介の香りがやわらかく漂ってきた。あの香りには、不思議と人を落ち着かせる力がある。厨房では、マスターが穏やかな笑顔で客に声をかけていた。ひとつひとつの言葉がやさしく、丸みを帯びている。「はい、ありがとうございます」「もう少々でできますね」その声のトーンには、信頼と静けさが混ざっていた。
奥さんはその隣で、まるで呼吸を合わせるように動いている。マスターが「お願いします」と軽く声をかけると、彼女は一歩前に出て、丼を温めたり、具材を受け取ったりする。ふたりの間には無駄な言葉がない。しかし、そのやりとりには、長年連れ添った人にしか出せないリズムがあった。一瞬の視線のやりとりだけで、店全体の空気がすっと整う。それはまるで、小さなオーケストラの指揮者と奏者のようだった。音楽にたとえるなら、静かに立ちのぼるワルツ。
永太の厨房には、そんな優しいテンポが流れていた。
赤星をグラスに注ぐ。泡の細かさが、美しく、淡い光を受けて輝く。ひと口含むと、体の中で冷たさが音もなく広がり、さっきまでの暑さがゆっくりと引いていく。つまみのチャーシューメンマをひとつつまむ。噛むたびに、秋の気配が少しずつ輪郭を持ち始める。
そして、塩ラーメンが運ばれてきた。白磁の丼の中に、静けさと調和が共存している。針生姜の香りが、柔らかなスープの湯気と混ざって鼻をくすぐる。レンゲでスープをすくうと、乳白色の液体が光を抱き込むように揺れた。ひと口含む。豚と魚介が圧力釜でほどけ合い、味がまるで静かな湖面のように広がっていく。濃厚なのに澄んでいて、やさしいのに力がある。そのバランスは、まるでこの夫婦の関係をそのまま映したようだった。
麺をすする。中太麺が、スープをまとって舌の上を滑る。噛むたびに、音のない幸福が胸の奥に波紋のように広がっていった。チャーシューはしっとりとして、噛むほどにやさしい余韻を残す。
最後のスープを飲み干す頃、ふと店内の空気がひとつに溶け合った気がした。マスターの笑顔、奥さんの気配、客たちの静かな満足。それらがまるで一枚の風景画のように重なり合っている。外の光は少し傾き始め、木のカウンターに午後の影を落としていた。
店を出ると、風がほんの少し冷たくなっていた。それでも、心のどこかではまだ、永太の厨房の温度が残っている。それはまるで、胸の奥に灯った小さな明かりのようだった。夏の終わりと秋のはじまりのあいだで、その光だけが、確かに僕を照らしていた。
#永太
2025/10/25 更新
2025/09 訪問
蕨の永太にて、塩ラーメンを
初秋とは名ばかりで、空の青はまだ夏の記憶を手放そうとしない。京浜東北線を降り、いつものように蕨駅から歩く。永太の隣、コーポの影が細く伸びていて、そこだけ季節が一歩だけ先を行っている。僕はその涼しさの中に逃げ込むように腰を下ろし、缶の角ハイボールを開けた。プシュッという音が、街の喧騒を一瞬だけ静める。冷えた液体が喉をすべり落ちていく。炭酸の泡が、まだ夏に置き忘れてきた時間をひとつずつ弾けさせる。⸻うん、悪くない。
開店を待つ人々の列に、静かな期待が流れる。
暖簾が上がる瞬間、空気が少しだけ張りつめる。僕以外の客は全員つけ麺を選んでいた。永太といえば、あの濃厚な魚介豚骨のつけ汁に太麺⸻それが定番だ。でも僕は少しだけ逆らって、季節の端境に似合う塩ラーメンを選ぶ。
カウンターの向こうで、針生姜に熱した油を落とす「ジュッ」という音がした。その瞬間、世界のピントがひとつ合う。ああ、僕の塩ラーメンが出来上がったんだ。
目の前に置かれた丼からは、湯気が立ちのぼっている。スープは乳白色⸻豚と魚介が圧力釜で解け合ったような、柔らかな香り。レンゲですくって口に含むと、濃厚なのに優しい、まるで秋の入り口に差し込む午後の光みたいな味がした。麺をすすると、滑らかで艶があり、クリームのようなスープをまとって舌の上を泳ぐ。噛むたびに音もなく幸福が染みてくる。
グラスに残った最後の赤星を一口。冷たいビールの苦味が、さっきまでの熱をすうっと奪っていく。体の奥で「整う」という感覚がゆっくり立ち上がる。まるで世界のリズムが少しだけ整列していくような気がした。
⸻やっぱり永太は、塩ラーメンだ。この一杯の前では、他の選択肢はいつも霞んでしまう。
店を出ると、太陽は相変わらず眩しく、空にはまだ夏の青が残っていた。でも僕の中では、確かに季節がひとつ動いたのだった。
#永太
2025/10/10 更新
2025/08 訪問
蕨の永太にて、塩ラーメンを
蕨駅から歩いて数分。
アスファルトの照り返しが靴底をじわじわ焼いていく昼下がり、僕は「麺屋 永太」の前に立っていた。店の隣の古いコーポの壁が細長い影を落としていて、そこに身を寄せる。日陰とはいえ、暑さは薄いビニールの膜みたいに全身を包み込む。
バッグの中にはコンビニで買った角ハイボールが一本ある。冷たいアルミの感触が、持っているだけで体温を数度下げてくれる。プルタブを開ければ、短い夏休みみたいな時間が訪れる。イヤフォンから流れるNetFlixの音は、現実のアスファルトを遠ざけ、60分の待ち時間をほんの数ページの小説に変えてしまう。
暑い日だからつけ麺を――僕はそう思う。いや、正確に言えば、僕はそう言い張る。けれど僕の影は、塩ラーメンだと呟く。気づけば手が勝手に塩ラーメンの食券をポチッとしている。どこかの小説で読んだような、あり得ないけれど当たり前の出来事。僕と僕の影の、ささやかな確執だ。
席につき、赤星を頼む。瓶のラベルは古いレコードジャケットみたいで、見ているだけで少し落ち着く。グラスに注がれた冷たいビールが、体を一段階クールダウンさせてくれる。すると、厨房から針生姜に油を落とす音が聞こえた。ジュッという短い衝撃音。それは、僕の塩ラーメンが今まさに出来上がったという合図だった。
丼が置かれると、世界はくっきりと輪郭を取り戻す。濃厚でクリーミーなスープが、なめらかな麺を包み込んでいる。箸をすべらせ、麺をすすり込む。塩が舌の奥で小さく火花を散らし、豚と魚介の旨みが深い川底へ僕を連れ込んでいく。周囲を見渡せば、みんなつけ麺を食べている。けれど、そんなことはどうでもいい。僕は僕の塩ラーメンを食べているのだから。
缶ハイボールで耐え、赤星で整い、僕は塩ラーメンを啜る。やっぱり永太は塩ラーメンだ。僕の影に感謝しながら、最後の一滴まで飲み干した。
#永太
2025/09/28 更新
2025/07 訪問
蕨の永太にて、つけめんを
永太の前に立つと、熱気が地面から立ち昇ってくる。体の周囲をまとわりつくその熱は、まるで夏という季節の執念深さを形にしたかのようだった。35℃を超える気温は、少し油断すれば体ごと飲み込まれそうだ。けれども、永太の隣にあるコーポの陰に腰を落ち着ければ、そこにはわずかな風が流れていて、進化した清涼グッズのおかげで、僕はかろうじて「夏を耐えている」という錯覚を抱くことができた。
店内に入ると、別世界のように涼しかった。券売機の前に立つと、反射的にいつもの塩ラーメンのボタンを押しかける。だが、このままではつけ麺を食べぬまま夏が終わってしまう。僕はそこで少し呼吸を整え、生卵と辛味のボタンを添えて、つけ麺の食券を買った。そう、人生というのは時に、心地よい習慣からわずかに踏み出す勇気を必要とする。
開店待ちで熱にさらされた身体に、赤星の冷たさは鋭い刃物のように沁みこんでいく。グラスの中の黄金色の液体は、たった一口で僕の内側に隠れていた小さな亡霊を呼び覚ます。おつまみのチャーシューメンマの塩気は、軽やかなジャズのベースラインのようにビールを進ませ、気がつけば一本をあっという間に飲み干していた。二本目の誘惑をどうにか抑え込んでいると、白い器に収められた麺が先にやってきた。
麺だけで既にひとつの完成された美だった。艶やかで、弾力を秘めたその姿は、夏の日差しに輝く真新しいビニールプールを思わせた。そこに沈む生卵の黄身は、小さな太陽だった。
つけ汁が運ばれてきたとき、世界の輪郭は一層鮮やかになった。濃厚で、それでいて透明感を失わない豚と節の香り。そのひと口は、幾度となく食べてきたつけ麺の記憶をすべて上書きするほどの力を持っていた。沈んだ細切りのチャーシューとメンマを一緒に啜ると、もう抗えないほどの幸福感が襲いかかり、僕はほとんど気絶しそうになった。
辛味をひとさじ加えれば、静かなクラシックが突如フラメンコへと変わるように味の風景は躍動し、生卵を絡めれば、緊張していた弦が一気に解けるようなやさしさが広がる。気がつけば、あれだけあった麺はすべて僕の内側に吸い込まれていて、器は夏の終わりを告げるかのように空になっていた。
永太のつけ麺は、他のどのつけ麺とも似ていない。ひとつの音楽のように、ひとつの小説のように、ただそこにしか存在しない「唯一無二の出来事」として僕の中に刻まれたのだった。
──夏はまだ続く。けれど、この一杯を食べたことで、僕はすでに小さな夏をひとつ乗り切ったのかもしれない。
#永太
2025/09/16 更新
2025/07 訪問
蕨の永太にて、塩ラーメンを
蕨駅から歩いて数分の場所に、ご存じの通り、麺屋永太はある。夏の曇り空の下で店の前に並ぶ。コーポの脇の日陰に入れば、そこそこ快適だ。もちろん湿度は高い。まるでぬるいタオルを身体に巻きつけられたような感じだ。だが、それくらいの不快さは、冷えたハイボールで簡単に処理できる。世の中の多くの問題がそうであるように、適切なアルコールさえあればたいした問題ではない。
開店と同時に食券機の前に立ち、塩ラーメンのボタンを押す。その「ポチッ」という乾いた音は、誰も気にとめないが、僕にとっては小さな宣言のようなものだ。カウンターに腰を下ろし、よく冷えた赤星を口に含む。瓶のラベルには赤い星が描かれている。僕はあの星がいったい何の星なのか知らないが、飲むたびに少しだけ宇宙に近づいたような気持ちになる。まあ、そんな気がするだけだが。
周囲の客はみなつけ麺を注文していた。僕ひとりだけが塩ラーメンを待っている。場違いな選択をしてしまったかのようにも思えるが、僕は気にしない。世の中では多くの場合、少数派が正しい。少なくともラーメンに関してはそうだと信じたい。
カウンターの向こうから「ジュッ」という音が聞こえる。針生姜に熱い油がかけられる音だ。誰のラーメンかは言うまでもない。僕の塩ラーメンだ。これはいつ聞いても悪くない合図だ。世界の中で自分が選ばれた瞬間のように思える。もちろん実際にはただの調理工程なのだが。
やってきた塩ラーメンは、美しいバランスを持っていた。濃厚でクリーミーなスープ、しなやかな麺、控えめなトッピング。僕はレンゲを動かし、麺をすすり、赤星でクールダウンを繰り返す。冷たいビールと熱いラーメン。ふたつの異なる温度が、ちょうどいい均衡を作り出す。
やっぱり永太は塩ラーメンだ。僕はそう思う。もし世界の終わりが明日訪れるとしても、きっと僕は今日と同じように、ここで塩ラーメンを食べているだろう。終わりが来るにしても、来ないにしても、僕にはどちらでも構わない。ラーメンさえ旨ければ。
#永太
2025/08/29 更新
2025/06 訪問
蕨の永太にて、塩ラーメン
開店待ちをするコーポの影は、まるで都市の片隅に残された古い映画館の幕間のように、柔らかな涼しさを僕に与えていた。気温は35℃を越えているというのに、ハンディファンと冷感タオル、そして冷えたハイボールとNetflixが揃えば、そこはもう小さな楽園だった。世界は熱波に焼かれているのに、僕はひとり、その中に設けられたオアシスの住人のように、心地よく開店待ちを続けることができた。
やがて暖簾が翻り、食券機の前に立つ。普通ならこの気温ではつけ麺を選ぶところだろう。だが今日の僕は、あまりに快適に過ごしすぎていたせいか、つい塩ラーメンのボタンをポチッと押していた。まるで無意識に引き寄せられるように。
カウンターに腰を下ろし、冷えた赤星をグラスに注ぐ。黄金色の液体が喉を滑り落ちるたび、体温が一段階ずつ調律されていくのがわかる。真夏の狂ったメトロノームが、正しい拍に戻っていくようだった。
ふと耳に届いたのは、針生姜に熱した油をジュッと落とす音。その瞬間、厨房から漂う香りが、僕の記憶の奥底にしまってあった夏の断片を呼び覚ます。ああ、これが僕の塩ラーメンの仕上がりを告げる合図だ。周りを見れば、他の客は皆つけ麺を待っている。けれどこの音は、ただひとりの僕のためのファンファーレのように響いていた。
器が目の前に置かれる。スープは濃厚でクリーミー、なのに澄んだ湖面のような透明感を秘めている。麺を啜ると、その滑らかさが舌の上で舞う。夏の暑さも、都会の喧騒も、その瞬間だけはすべて遠ざかっていく。世界がスープの中に溶け込み、僕と塩ラーメンだけが残される。
やっぱり永太は塩ラーメンだ。そう心の中で呟くと、それはまるで確かな真実のように胸の奥に沈んでいった。
#永太
#麺屋永太
2025/08/17 更新
2025/06 訪問
蕨の永太にて、塩ラーメンを
蕨駅から歩いて数分。ビルの谷間を抜け、今日も僕は「永太」で開店待ちをする。日差しが強くなったお陰で、開店待ちの列が、道路側ではなくコーポ側に移されていた。おかげで日差しは避けられ、涼しい風が通り抜けるこの日陰での待ち時間は、ちょっとしたご褒美のように感じられた。片手には角ハイボール、イヤホンからはNetflix。画面の向こうで誰かが人生を語っている。僕は僕で、塩ラーメンのことを考えていた。
まだまだ、夏は全開ではない。蝉も気合を入れすぎずに鳴いている。うだるような暑さの一歩手前、その微妙なバランスのなかで、僕は永太の冷房を恋しく思った。店内は期待を裏切らない涼しさで、入った瞬間に「もう迷う必要はないな」と呟いていた。食券機の前に立つ僕の指は、何のためらいもなく塩ラーメンを選ぶ。僕は塩ラーメンを知っている。そして、塩ラーメンも僕のことを知っている。
まずは、赤星。キンと冷えた瓶ビールのラベルが、僕の目にやさしく映る。グラスに注いで口に運べば、胃袋の奥で花火が上がる。口の中でビールが踊っている。その傍らには、おつまみのチャーシューメンマ。ほんのりとした塩味と脂の旨み、それを引き締める針生姜とネギのアクセント。塩ラーメンを待つこの一瞬のために、人生の99%があったのではないかと思うほど、ビールはすいすいと消えていった。
気づけば、赤星は空。二本目に手を伸ばしかけて、ぐっと我慢する。ここで満足してしまっては、塩ラーメンに申し訳が立たない。と、そのときだった。厨房から、「ジュッ」という小さな爆発音が響いた。油が熱された金属の上で、針生姜に触れた瞬間の音。空気が一瞬ざわつく。これは、僕の塩ラーメンのための合図だ。まるで舞台の幕が上がる直前の、照明のスタンバイ音のようだった。
僕は背筋を伸ばし、姿勢を整える。どこかで小さく深呼吸をする気配があった。そして、ラーメンが運ばれてくる。目の前に置かれたその瞬間、世界は一度静止する。何度も、何百回もこの光景を見てきた。でも、なぜだろう。この感情は、初めて恋をしたときと同じ種類の、静かで熱いものだった。今日もやっぱり、新鮮だった。
黄金色のスープはまるで午後三時の陽だまりだ。麺はその上にふわりと浮かび、チャーシューがそれを守るように寄り添っている。メンマは静かにその隣に座り、煮玉子がまるで深い眠りに落ちているように、そこに在る。細切りの針生姜と刻みネギには、かすかに赤い唐辛子が散らされていて、それはまるで見えない詩を添えているかのようだ。
一口すすると、すべてが腑に落ちた。この塩ラーメンは、僕の心の中にあった記憶の断片すべてを、もう一度集めてくれる。少年時代の海、恋人と歩いた夜道、疲れ果てた仕事帰りの電車の中――そんなすべてが、この一杯の中に溶け込んでいる気がした。
もちろん、美味しい。
そして、美味しすぎる。
それはもう、どうしようもないくらいに。
僕は、静かに箸を置いた。隣の席では誰かが、まだその一杯に向かい合っている。世界は、今日も悪くない。
#永太
2025/07/28 更新
2025/05 訪問
蕨の麺屋永太にて、塩ラーメンを
夏の入り口で、ぼくは蕨駅を降りた。熱を孕んだアスファルトがじわじわと靴底を通して足元に語りかけてくる。「今日は、なかなか骨が折れるぞ」でも、まだ平気だ。角ハイボールとNetflixが、まだ日常のふちに揺れている。だから、ぼくはまだ冷静でいられる。
目指すのはいつもの「麺屋 永太」言わば僕にとっての小さな宇宙船のような場所だ。数分の道のりを歩いているあいだ、空は少しだけ白く滲み、蝉の声はまだ本気を出していない。気温は上がっているけれど、まだ楽しめる。地球が本格的に狂い出すのは、きっともう少し先の話だ。
店の暖簾が上がり、冷房の涼しい風がフワリと僕を迎え入れてくれた。それはまるで、音のない映画館のロビーに足を踏み入れたときの感覚に近い。
迷うことなく、塩ラーメンの食券を買う。何度もそうしてきたし、たぶんこれからもそうする。身体が、そう記憶している。たとえば眠る前に灯りを消すように、あるいは本を読むときに無意識に栞を用意するように。
席につき、まずは赤星だ。冷えた瓶と、冷えたグラス。注いだビールの黄金の泡が、短い夢のように膨らんでは消える。つまみはチャーシューメンマ。程よい塩味と、ちょっとだけ大人びた渋さ。気がつけば、最初の一本はあっという間に消えていた。二本目を頼みたくなる。でも、今日はやめておいた。なんとなく、次の一杯を未来の僕に預けておきたかった。
そのときだった。厨房の奥から、「ジュッ」という音がした。灼熱の油が針生姜に落ちる音。店内の空気が一瞬止まり、そして静かに弾ける。
僕の塩ラーメンが完成した合図だ。背筋を正し、箸を持つ。たったそれだけの動作に、何かしらの儀式めいた厳かさが漂っていた。
白い器が目の前に置かれる。何百回も見てきたはずなのに、なぜか新鮮に感じる。ラーメンというのは、一種の再会なのかもしれない。見慣れた顔のなかに、ふと新しい表情を見つける――そんな感じ。
スープの表面には薄く油のレースが張っていて、それが光を受けてやさしく揺れていた。
香りが鼻先をかすめる。その時点で、ぼくはもう負けている。完全にノックアウトされている。
一口。クリーミーなスープが、そっと舌を撫でていく。豚と魚介のエッセンスを圧力釜でぎゅっと濃縮した、密度の高い液体の詩。スープというより、これは音楽に近い。たとえばビル・エヴァンスが深夜に爪弾く「Peace Piece」重さと軽さ、塩と甘み、陸と海。そのすべてが絶妙にバランスを取り合っている。しつこさがまったくないのに、豊かすぎる。
麺はしなやかで、適度な弾力を保ちつつ、スープの伴奏者として完璧な仕事をしている。チャーシューは静かで柔らかく、針生姜の鋭さは、それを起こす目覚まし時計のような役割を果たす。
僕はゆっくりと、しかし確実に、この塩ラーメンを食べていく。それは「食べる」というより、「対話する」に近い今日はどうだった? 最近、疲れてない? また来てくれて、ありがとう――そんな声が、どこからか聞こえてくる気がする。
すべてを食べ終えたころ、店の外では蝉が本気を出し始めていた。それでも、店内の空気はまだやさしく、スープの余韻が舌の奥に静かに残っている。
きっとまた来る。いや、また来てしまう。人生にはそういう場所が、いくつかある。麺屋 永太も、その一つだ。
#永太
#麺屋永太
2025/06/30 更新
2025/05 訪問
永太にて、つけ麺を
5月の初旬だというのに、太陽はもう完全に夏の衣装に着替えていた。どこか遠くのビーチから届いたような光が、蕨駅の東口を抜けたあたりのアスファルトを容赦なく叩いている。僕はボタン・ダウン・シャツの袖を少しだけまくり上げて、「太陽万歳」とひとりごちる。いや、ほんとうのことを言うと、日差しはどんどん厳しくなっていて、体力がじわじわと奪われていく。だけど、こういう日差しが嫌いかと聞かれたら、うん、嘘になるな。なにしろ、開店待ちのこの時間に飲む角ハイボールが、どんどん美味しくなってくる季節なのだから。
そして「麺屋 永太」の暖簾がそっと揺れて、店が開く。扉の向こうには、夏の気配がひとまず凍結された別世界が広がっている。いつもの永太の香り。湯気の匂い。冷房の吐息。そしてなにより、キンと冷えた赤星。SAPPOROのグラスの表面にびっしりと浮かんだ水滴をひと拭きもせず、ただ喉に流し込む。ごくりとひと口、胃の奥に消えていくその感覚は、まるで旧友からの短い手紙のように心地よい。
塩味のきいたチャーシューメンマが小鉢で供される。一口ごとに、冷えた赤星と完璧な対話を重ねていく。これはもう立派な会話だ。つまり、僕が話し、赤星がうなずき、メンマが笑う。うん、夏の入り口にはこういう三角関係がよく似合う。
そう、こんな日はやっぱりつけ麺だ。しかも永太の、あのつけ麺。潔く締められた中太麺の上には、生玉子がまるで太陽のミニチュアみたいに輝いている。味玉は穏やかで優しい月のようだ。両者はなにかの神話を演じているみたいに、麺の上で黙って佇んでいる。
つけ汁は豚骨魚介。だが、その語感から想像されるような荒々しさは微塵もない。いや、むしろ反対だ。整った品格と優しさに満ちていて、例えるなら、礼儀正しい猫が差し出す熱いミルクみたいだ。中に浮かぶチャーシューとメンマは、もはや神器と呼ぶべき存在感で、箸で持ち上げたときの手応えに、軽く身震いしてしまう。
麺を汁に浸けて、口に運ぶ。旨味が静かに、しかし確かに舌の奥から広がっていく。辛味は別皿で提供される。これはマストだ。ルールじゃない。礼儀だ。生玉子に少しだけ辛味を溶かし、麺をくぐらせてすする。甘さと辛さが寄り添い、まるでボサノヴァのリズムのように交互にやってくる。唐突ではなく、緩やかに。だが確実に。
気がつけば、中盛にしてもらった麺が、あっという間に器から姿を消していた。どこへ行ったのかなんて考える必要はない。夏は、気がつくといつも終わりに向かって走っているのだから。
やっぱり永太のつけ麺は、美味しい。静かに、しかし確固として、身体の奥に残る何かがある。そうだ、いよいよつけ麺のシーズンがやってきたんだ。
また来るだろう。太陽と赤星とつけ麺のトリオに誘われて。
#永太
2025/06/09 更新
2025/04 訪問
麺屋永太にて、塩ラーメンを
蕨駅の改札を出て、何も考えずに足を動かす。目指す先はいつも同じ、駅から数分歩いた先にある「麺屋 永太」。もう何度この道を辿っただろうか。季節ごとの風の匂い、光の加減、汗のにじみ具合──それらを感じ取りながら暖簾をくぐるのが、ちょっとした儀式のようになっている。
今日の空は灰色のフィルムをかけたような曇天。気温は高いが、日差しがないぶん、まだ塩ラーメンが似合う午後だった。初夏に差しかかるこの季節、永太ではつけ麺を頼む客が明らかに増える。それは当然だ。あの冷水で締めた太麺と魚介の濃厚つけ汁は、初夏の午後を乗り切る武器になる。でも僕にとっては、今日のような“つけ麺一択”になりきれない日こそ、塩ラーメンを選ぶべきタイミングだ。
注文は決まっている。塩ラーメン。マスターと目が合えば、僕の表情だけで伝わる頃合いだ。
厨房からは、針生姜の上に熱した油をジュッとかける音が聞こえる。その音は、僕にとっては合図のようなもので、「今日もあの一杯がやってきたぞ」と心の中で静かに準備を始める。香りがふわりと店内に広がり、まるで小さな打ち上げ花火のように鼻腔で弾ける。
目の前に現れた一杯は、何度見ても惚れ惚れする構成美だ。三枚の海苔が屏風のように背を支え、麺は力強く、スープは澄んでいながらも奥深い。チャーシューはまるで中編小説のように厚みがあり、噛むたびにじわじわと物語を語り出す。中央の針生姜は山の稜線のように美しく、熱油によって鮮やかにその表情を変えていた。
一口すすれば、舌に乗るのは塩ではない。「塩味をまとった記憶」だ。何度食べても飽きが来ないのは、味が変わらないからではない。むしろ毎回微妙に表情が違う。その微差を感じ取れるのが、常連の役得でもある。
そして忘れてはいけないのが、瓶ビール──赤星。今日もお通しに、小鉢に盛られたいつものメンマとチャーシューに、少しの辛味がついていた。これがまた、塩ラーメンを待つ間の最良の読書のような存在で、気分を静かに整えてくれる。
「あと何回、この塩ラーメンに会えるだろうか」と思う。真夏になれば、いやでも身体がつけ麺を求める日がやってくる。その前に、あと数回だけこの塩ラーメンの温度を記憶に刻んでおきたい。そう思わせるのは、味だけではなく、通い続けてきた年月の積み重ねがあるからだ。
店を出ると、少しだけ風が涼しく感じられた。きっとそれは気温のせいではなく、心が満たされていたからだろう。僕はポケットに手を突っ込みながら、次はいつ来ようかと考えた。週末か、また曇りの日か──そのときもまた、きっと塩ラーメンを選ぶだろう。
#永太
2025/05/18 更新
2025/04 訪問
永太にて、塩ラーメンを
蕨の駅を出て、北へ歩くこと数分。風が少しだけ湿っていて、僕はシャツの袖を一折りした。街の喧騒が一歩ずつ遠ざかり、住宅街の静けさが肩の上にそっと降りてくる。そうして辿り着いたのが、「麺屋 永太」だ。いつだって人が並んでいる。まるで幸福な記憶が行列をつくっているかのように。
ドアをくぐると、空気が変わる。淡い出汁の香りと、木の温もりと、誠実な人の気配。何年か前、初めてこの店でラーメンを啜った日のことを、僕は今でも思い出せる。あの日のスープの熱さと、マスターと奥さんの笑顔。何もかもが無駄なくそこに在って、何ひとつ足りないものなどなかった。
塩ラーメンが目の前に置かれる。その佇まいは、一種の静物画のようでもある。澄んだ塩スープの中に浮かぶ極太の麺は、まるで海底に眠る金色の縄のようにしなやかで重みがある。チャーシューは薄く切られていて、しかし口に含むと、きちんと「肉の記憶」が残る。葱のシャキシャキした歯ざわりと、背後からそっと支える魚介の風味。どこかの港町の夜明けのような、輪郭の柔らかい旨味だ。
その一杯には、間違いなく「家族」という名前のスパイスが入っている。これはただのラーメンではない。たとえば、以前店を手伝っていたご両親の姿を思い出す。控えめで、でも確かに店の空気を一段やわらかくしていた。マスターがラーメンに向き合う姿勢を見ていると、「ああ、これは育ちの良さだな」と思う。誇張じゃない。ラーメンの隅々にまで、真っ直ぐな優しさが染み込んでいる。
そして僕が永太を愛する理由をもう一つ挙げるなら、それは――トイレの清潔さだ。信じられないほどに、いつでもピカピカだ。ラーメン店のトイレなんて、今までさほど気に留めたことはなかった。だけど永太のそれは、むしろ一種の「信仰」のように感じられる。トイレは使うたびに汚れていく。にもかかわらず、常に清潔さが保たれているという事実は、見えないところに手を抜かないという精神の現れだ。誠実さの表象。それはラーメンの一口一口にも反映されている。
ふと思い出す。僕がかつて愛してやまなかった神田のとんかつ店も、やはりトイレが極めて美しかった。そしてそのとんかつは、世界一だった。
ビールはサッポロの赤星。これまた絶妙な冷え具合で、グラスの外側を薄く曇らせながら喉元をすべっていく。その瞬間、何かが音を立ててほどける。肩の力か、過去の重さか、それとも春の名残か。
食べ終え、外に出る。空はいつの間にか高く、雲が静かに流れていた。並ぶ人々の中に、少しだけ昔の自分を見た気がした。次に来たときも、きっと永太は変わらずそこにあるだろう。そういう確信を胸に、僕は駅までの道をゆっくりと歩いた。
――永太は、ラーメンでできている。でも、それだけじゃない。あれは、家族でできている。誠実さと、優しさと、清潔さの、集合体なのだ。
次は、また塩にしようか。いや、つけ麺も捨てがたい。そんな風に悩む時間こそが、僕にとっては最高の贅沢なのかもしれない。
#永太
2025/05/02 更新
2025/03 訪問
永太にて、塩ラーメンを
長いトンネルを抜けたような気分だった。例の長期休業から、何度か足を運び、ようやくいつもの永太がそこにあることを身体の内側で受け入れられるようになった。まるで冬眠明けのクマが、森の中の自分の小さな岩穴を再び見つけた時のような安心感。そう、僕の生活には「永太」が必要だったのだ。
蕨駅を出て、商店街を抜け、住宅とアスファルトの狭間をすり抜けるように歩くと、永太はひっそりと、けれども確固たる存在感で建っている。何度も夢に出てきた場所のように、そこにあるべきものが、そこにある。
今日は土曜日。土曜日は、変わらず営業している。これもまた救いだ。永太の営業時間は以前より少なくなったけれど、僕の行く土曜日のこの時間だけは、時が守られたままなのだ。子供の頃の秘密基地のように、そこは今でも僕を受け入れてくれる。
相変わらずの塩ラーメン。いや、相変わらず、という言葉は簡単だけれど、その奥には驚くべき安定感がある。このスープ、味のブレがほとんどない。まるで毎朝、同じ海の波を瓶に詰めて差し出されるような感覚。これって本当にすごいことなんじゃないかと、しみじみ思う。
どんなに評判のラーメン屋だって、味の均一性を保つのは至難の業だ。スープの濃さ、塩の角、脂のキレ、麺との絡み具合——それらすべてを日々の気温・気候の変化の中で同じように保つこと。それは、雨の日に同じ音色でピアノを奏でるようなものだ。
しかもそれが、機械ではなく、マスターの手によって成されているというのだから、なおさらだ。彼はきっと、毎朝、自分の心と味覚を水平器にかけて、微細なズレを正してから厨房に立つのだろう。そういうクラフトマンシップが、このラーメンには染み込んでいる。
味が好きなのはもちろんだけど、僕が永太を愛する理由は、たぶんそこにある。誠実さと反復、創意と手間暇が器の中にぎゅっと閉じ込められている。それはラーメンというより、小さな物語のようでもある。
一口すするごとに、僕の生活は少しずつ整っていく。仕事の雑音も、通勤の疲れも、子どもの宿題の面倒さも、少し遠くへ押しやられる。そして、ただスープの温度と麺の太さに集中できる時間が、確かにここにはある。
それは、どこにでもあるようで、実はどこにもない、僕だけの時間だ。
#永太
2025/04/11 更新
2025/03 訪問
麺屋永太にて、久しぶりのつけ麺を。
長い休業を経て、永太が帰ってきた。その扉をくぐるのは三度目になる。前の二度は、開店待ちの寒さに身を縮め、塩ラーメンの温もりに救いを求めた。しかし今日は違う。春の気配が静かに街の隅々に忍び込み、冬の冷たい刃もすっかり鈍っていた。そう、今日はつけ麺の番だ。
僕はつけ麺というものは、冬の冷たい水でぎゅっと締められてこそ、その真価を発揮すると信じていた。しかし、その道のプロは言った。「永太のつけ麺は、そういう類のものではない」と。以来、僕は永太では暖かくなってからつけ麺を食べることに決めている。人生には、すべてふさわしいタイミングというものがある。
いつも通り、まず麺だけが先に供される。それはまるで、独白を続けるジャズピアニストのように、白磁の器の中で静かに佇んでいる。ひと口、啜る。何もつけなくても、驚くほど美味い。小麦の甘い香りが鼻腔をくすぐり、噛めば噛むほど滋味が滲み出す。特飛龍の麺はまるで、長年の修行を経た弓道家のように、しなやかでありながら鋭く、芯の通ったコシを持っている。
やがて、つけダレがやってくる。碗の中には、深い海の底に沈んだ秘宝のように、細切りのチャーシューとメンマが眠っている。それをそっとすくい、麺とともに口に運ぶ。気絶する。いや、気絶という言葉では足りない。重力を失い、意識だけが遥か上空へと吹き飛ばされるような感覚だ。
麺の上の生玉子を崩す。黄身がとろりと流れ、麺に絡みつく。そこに辛みをまぶす。味の輪郭がはっきりと際立ち、辛味と旨味が絡み合い、渦を巻く。気絶の向こう側へと突き抜ける。言葉はもう無力だ。ただ、黙ってこの瞬間を味わうしかない。
最後にスープ割りをいただき、余韻を楽しむ。それはまるで、深夜のジャズバーで最後に聴く、静かなピアノの独奏のようだ。長い夜の終わりにふさわしい、美しい終曲。
永太のつけ麺、最高すぎる。そして、春が進むにつれて、これを楽しむ機会はさらに増えていく。そう考えると、少しだけ未来が明るく見える。
#永太
2025/04/04 更新
2025/02 訪問
永太にて、塩ラーメンを
長い休業が明け、先週に続き再び「麺屋 永太」の暖簾をくぐったのは、まるで冬の海に飛び込むような寒い日だった。前回は塩ラーメンを食べた。だから今回はつけ麺にしようと決めていた。だが、冷たい風に晒されながらの開店待ち60分は、僕の決意をひび割れた氷のように脆く崩れ去らせた。湯気の立つ丼の誘惑には、どんな信念も抗えない。
店に入り、席につく。ふとトイレの方を見ると、先日渡したカレンダーが飾られていた。カレンダーはただの紙の束かもしれないが、そこには時間が刻まれている。永太の休業が終わり、また世界が回り始めた。そんな気がした。
席に戻ると、いつもの赤星とおつまみチャーシューメンマが待っていた。長年変わらぬ儀式のようなものだ。外で冷え切った体には、黄金色の液体が細胞の隅々にまで染み渡る。赤星の泡が舌の上で静かに弾ける。その感覚は、耳元でそっと何かを囁かれるような心地よさだった。メンマを噛み締めると、甘辛い味が舌の上で小さな波を作り、じわりと広がっていく。
そのとき、厨房から「ジュッ」という鋭い音が響いた。続いて、針生姜に熱した油をかける香ばしい匂いが、店内の空気を一変させる。音と香りが絡み合い、まるでオーケストラの序曲のように、これから登場する主役を予告する。
そして、塩ラーメンが目の前に置かれた。クリーミーなスープに絡む中太麺、しっとりとしたチャーシュー、味の染みた煮卵、艶やかなメンマ、そして彩りを添える針生姜と白髪ネギ。そこには、余分なものが一切なかった。ただ必要なものだけが、精密に組み立てられた美しい建築物のように並んでいる。
一口すする。長い休業を経ても、寸分違わぬ味。いや、それどころか、先週食べたときより美味しく感じる。ラーメンというのは生き物だ。毎回同じ材料、同じ手順で作られているはずなのに、なぜか前回よりも美味しく感じることがある。永太のラーメンはまさにそうだった。150回以上食べているのに、いつも「前回より美味しい」と思わされる。
それは進化というより、むしろ精密機械のようなものだ。ブレがない。マスターが一杯一杯を研ぎ澄まされた感覚で作り上げるからこそ、この変わらぬ美味しさが生まれるのであろう。まるで時計職人がミクロン単位の精度で部品を磨き上げるように。
最後の一滴までスープを飲み干し、丼をカウンターに戻したとき、僕は少しだけ満たされた気分になった。外の寒さは相変わらずだろう。でも、永太の塩ラーメンがあれば、それも悪くない。
#永太
#麺屋永太
2025/03/20 更新
2025/02 訪問
久しぶりの永太にて塩ラーメンを
京浜東北線の蕨駅を降り、歩くこと6分。冬の風は冷たく、足元に落ちる影が長く伸びる。昨年6月から長い休業に入っていた「麺屋永太」が、ようやく帰ってきた。8ヶ月ぶりの再会は、懐かしさと少しの緊張を伴う。まるで長い旅から帰ってきた親友と再び向かい合うような気分だ。
扉を開けると、マスターと奥さんの元気そうな笑顔が迎えてくれた。その表情を見た瞬間、8ヶ月という時間が少し縮まった気がする。しかし、常連にとってはやはり長かった。休業中に食べた何百杯ものラーメンのどこかに、常に永太の味がちらついていた。
まずは、赤星で喉を潤す。グラスの表面を伝う細かい泡が、8ヶ月の月日をさらさらと洗い流していく。おつまみのチャーシューメンマをつまみながら、店内の空気に溶け込んでいく。たった8ヶ月、されど8ヶ月。この小皿ひとつにも懐かしさが滲んでいる。
ビールを飲み干した頃、厨房から「ジュッ」という音が響いた。温めた油が針生姜に注がれ、食欲をくすぐる香りが立ち上る。それは、僕の塩ラーメンが完成した合図だった。
白い丼の中に、変わらない永太の世界が広がっていた。濃厚で分厚いスープ。その奥行きは、まるで深海のようにどこまでも続いている。もちもちとした麺がスープをしっかりと抱え込み、口の中で滑らかにほどける。チャーシューは柔らかく、メンマはコリッと心地よい歯応え。どれもが、8ヶ月前の記憶とぴたりと重なる。サービスの味玉も、まるで「待たせたね」と微笑んでいるようだった。
食後、毎年恒例のカレンダーを手渡すと、マスターが「ちゃんと場所を空けてありますよ」と笑った。僕が持参したカレンダーが、空いていた壁のスペースを埋める。そして、永太が営業を再開したことで、僕の心にぽっかりと空いていた隙間もまた、静かに埋まっていった。
店を出ると、開店前から並んでいた行列はさらに長く伸びていた。その光景を見て、ふと思う。きっと、みんなも僕と同じ気持ちだったのだろう。
8ヶ月ぶりの永太。その一杯は、単なるラーメンではなかった。それは、待ち続けた時間の結晶であり、僕たちが帰る場所の証明だった。
#永太
#麺屋永太
2025/02/25 更新
2024/06 訪問
永太の塩ラーメン
JR京浜東北線・蕨駅から徒歩7分ほどにある自家製麺の中華そば店「麺屋 永太」
しばらくの間、休業をされるとのことで、永太の美味しいラーメンともしばしのお別れ。何よりマスターと奥さんとお会い出来なくなるのは非常に寂しい気持ちになりますが、お身体に気をつけて、無事に出産できることをお祈りしています。
そんな休業前最後の一杯は塩ラーメン。暑かったのでつけ麺にしようかと思いましたが、ここはやっぱり世の全ラーメンで一番大好きと言っても過言でない永太の塩ラーメンを。この味、味蕾と感度に再インプット。よーく冷えた赤星におつまみの日本一のメンマを噛み締めながら、塩ラーメンの仕上げ、針生姜への油ジュッとの心地よいサウンドも当分聞き納めか。しばらく食べられないかと思うといつも以上に美味しく感じる今日の塩ラーメン。最高。最上級。色んな意味でありがとうございました。
再開はいつになるかわからないけども、むしろ寂しさより、期待の方が大きい。だって、トーチャンとカーチャンになったマスターと奥さんが作るラーメン、今まで以上に魂がこもった素晴らしいラーメンになっているはずだから。
#永太
2024/07/08 更新
11月中旬、蕨の朝はまだ完全に目を覚ましていなかった。時計を見ると9時45分。人間でいえば、コーヒーを一口飲んで、ようやく現実に戻ってくるくらいの時間だ。
それでも永太の前には、すでに3人が並んでいた。彼らはまるで、潮が引く前の浜辺に立つ釣り人のように、静かに、しかし確信を持ってそこに立っている。ここに来れば、間違いなく“何かいいもの”が手に入ると知っている人たちだ。
SNSやテレビで永太が紹介されてから、随分と時間は経っている。普通なら熱は冷め、話題は別の店へと移っていく。ラーメン業界は、流行が回転寿司の皿より早く回る世界だ。それでも永太の列は、今日もここにある。
それはたぶん、派手な花火じゃないからだ。一瞬で夜空を照らして消える光ではなく、夜明け前に誰かの家の窓から漏れる、台所の灯りみたいな存在。気づいた人だけが、静かに近づいてくる。
僕は列の最後尾に立ち、周囲を見回す。人々はスマートフォンを見たり、空を見上げたり、それぞれ違うことをしているのに、全員が同じ方向に流れている。まるで目に見えないベルトコンベアに、ゆっくりと運ばれているみたいだった。
開店の時間が近づくにつれ、その流れは少しずつ太くなる。気がつけば後ろには列が伸び、出るころには、はっきりとした“行列”になっていた。一度食べて美味しいと思った誰かが、別の誰かにそっと教え、その誰かがまた次の誰かに伝える。永太は広告よりも、人の記憶によって広がっていく店なのだと思う。
正直に言えば、気楽に食べに来られなくなったことは、少しだけ寂しい。昔から知っているお気に入りの静かな場所に、いつの間にか観光バスが停まるようになった、そんな気分に近い。
でも同時に、これは避けられないことでもある。良いものは、いずれ人の目に触れてしまう。
店に入ると、マスターと奥さんがいつも通りの笑顔で迎えてくれる。その表情には、人気店の余裕も、疲れもない。ただ、昨日と同じように今日を繰り返す人の、安定した温度がある。
やがて塩ラーメンが目の前に置かれる。白濁したスープは、時間をかけて磨かれた石のようで、派手さはないが、どこを触っても角がない。レンゲですくって口に運ぶと、味が押し寄せてくるのではなく、静かに“同席”してくる。
豚の旨味と魚介の気配は、言葉少なな会話みたいだ。必要以上のことは言わないが、沈黙が気まずくならない。麺をすすると、身体の中の時計が少しだけ正確になる気がした。
食べ終えたあと、外に出る。列はさらに伸び、朝の蕨は完全に動き出していた。それでも永太の前だけは、少しだけ時間の流れが違う。
流行に追われず、流行からも置き去りにされない。永太は、そんな不思議な場所だ。
僕はコートのポケットに手を入れ、ゆっくりと駅の方へ歩き出す。またしばらくは、覚悟を決めて並ばなければならないだろう。でも、それも悪くない。待つ価値がある味だと、僕はもう知っているのだから。
#永太